ウクライナ緊急支援
YMCAは平和を希求し、平和のために働く
世界120の国と地域にあるYMCAのネットワークを使い、ウクライナからの避難者を受入れ、生活支援を行っています。
◆日本への避難者支援◆
2022年3月初旬に日本への避難を希望された1人の方を、ポーランドYMCA・ヨーロッパYMCA同盟・日本YMCA同盟とが連携し、出国から来日まで2週間にわたってサポート。その後も相談が続き、1年間で165人の来日を支援しました。
5月には他団体と協働で、避難者とそのご家族のための交流・学びの場“Ukraine Café HIMAWARI”をオープン。オンラインの日本語教室や生活相談も始めるなど、来日後の支援にも力を入れています。
7月からは関係省庁や東京都との連携も始まり、避難者宅を訪問してニーズ調査するなど、1,000人以上の方の”伴走支援”を担っています。
◆ウクライナおよび近隣諸国での避難者支援◆
モルドバやルーマニアなどウクライナ近隣のYMCAは、避難者のために宿泊・食事・生活物資を提供しているほか、子どもたちの不安を緩和するためレクリエーションや教育の提供も行っています。
ウクライナ国内のYMCAは、避難できない高齢者や障がい者、家屋を失った方への生活支援を行っています。
関連ニュース一覧
SNS一覧
■日本YMCA同盟Twitter 日々の活動を掲載しています。
■日本YMCA同盟facebook(Ukraine Café Himawari) 避難者向けの情報をウクライナ語で掲載しています。
■日本YMCA同盟note 避難者の声や来日までのストーリーを掲載しています。
■ヨーロッパYMCA同盟facebook 周辺諸国の支援活動の様子が報告されています。
メッセージ等
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◆1人目の来日者 テティアナ・ロパテンコさんの手記はこちら⇒
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いつかきっとうまくいく(いつかきっとウクライナになる)
~1人目の来日者~ テティアナ・ロパテンコさん手記みなさんこんにちは、私はターニャ(訳注:テティアナの愛称)といいます。ウクライナのクレメンチュクという街に住んでいます、いえ、住んでいました。クレメンチュクは乳製品、食肉、製菓工場、また石油精製工場、車両製造工場など、多くの工場がある工業都市です。戦争が始まったのは深夜のことでしたが、その瞬間を境に、それまでの人生とその後の人生はまるで違うものになったかのようでした。この戦争の前までは友人たちと会えば近況を報告しあい、この一週間に起こった面白い話を語り合ったというのに、戦争が始まってからは、防空壕で会って話すことといえば、「ここに来る途中でロシアの軍用ネオンサインを見たから、空襲警報が終わったら必ず警察に電話をしなければ」などということくらいでした。日本に住む娘から電話があり、YMCAが日本への渡航支援を申し出てくれていると聞いたとき、私は「そうしましょう」と答えました。そのためには、まず隣の国まで行き、その国の日本大使館でビザを取り、飛行機に乗る必要があります。ポーランドを経由することにしたのは、それが最も辿り着きやすい経路だったからです。駅まで着くと、避難のための無料列車が運行していることを知りましたが、その列車は超満員で、通常4人がけの席に11人が立って乗っている状態でした。私は膝が悪く、12月24日には腕を2カ所骨折し、現在も療養中だったため、他の選択肢を探さざるを得ませんでした。娘夫婦がSNSでより安全な経路を探してくれている間に、私はバスターミナルに行きました。リヴィウ行きのバスの座席予約をそこで受け付けており、運賃は1,900フリヴニャ(訳注:約7,600円。ただしウクライナの平均月収は約4万円)でした。私は席を予約し終えると、出発に向けて荷造りするために一旦帰宅しました。必要最低限のものしか持ち出すことはできないと思い、結局リュックサック一つ分の荷物だけを背負って出発することになりました。
翌朝、心の中で我が家に別れを告げ、バスで出発しました(クレメンチュクは工業都市のため、ロシア軍が市内の工場を爆撃し始めたら私の家にも被害が及ぶ可能性があり、私の帰る場所がなくなるのは時間の問題でした)。長時間かけてバスは走り、通常12時間のところ、25時間もかかりました。これは、バスの運転手が安全のため、大都市を迂回し小さな通りを選んで走行したためにほかなりません。途中、軍の検問所やバリケードを何度も通過し、戦車を脇目に見つつ、書類のチェックを受けたりもしました。 ほんの数日前まで美しかった私の国が廃墟と化していくのを目の当たりにするのはとても恐ろしく悲しい気持ちでした。半壊した家屋、学校… 25時間の間にバスが停車したのは3回だけでした。急がなければなりません。リヴィウに到着すると、バスの運転手は、追加料金で国境まで送ることができると言いました。45席のバスの乗客のうち15名がそうすることにしました。そこから国境まで2時間かかりましたが、国境を越えるのは20分で済みました。この状況にしてはかなり早かったと言えます。国境から先のバスの列に並ぶ人は多く、5〜7時間待ちでした。私はワルシャワに行く必要がありましたが、あいにくワルシャワ行きのバスはなく、クラクフ(訳注:ポーランド南部の都市)からワルシャワに行けるだろうと思い、クラクフ行きに乗りました。自宅を出てポーランドまでの道中で一番辛かったこと。それはおそらく、家と、これまでの人生をかけて働いて手に入れたすべてを置いていくということです。そして、国境まで一体どうやって、いえ、そもそも日本までどうすれば辿り着けるのか想像もつかなかった、ということです。私が最後に飛行機に乗ったのは33年前、それも隣の国に行くだけでした。33年ぶりに、しかも乗り継ぎもしながら、そんなに遠くまで…。それは言うまでもなく、私にとっては非常に大きな負担がかかるものでした。25時間を超える道のり、そして、もしかしたら次の瞬間、バスに爆弾が落ちてくれば、この世から自分があとかたもなく消えてしまうかもしれない、という恐怖。
YMCAの職員がポーランドで出迎えてくれました。ポーランドでの私の滞在はもちろん、書類の準備やビザの取得にいたるまで彼らが私をずっとサポートし、手伝ってくれました。ワルシャワに来た当初は、飛行機の音で目が覚めると、空襲警報が聞こえたのではないか、防空壕に逃げ込まねばならないのではないか、などと考えながら飛び起きてしまう日々でした。ポーランド滞在で一番大変だったこと。それは、言葉の壁もそうですが、ひたすら待たねばならないことでした。その間、YMCAのスタッフやその仲間たちがみんないかに親切にしてくれ、私を支えてくれたかについて、ここに記さずにいられません。こんな短い時間ではありましたが、記念写真まで撮るほどに、私たちの間には友情が築かれました。
出発の日になり、YMCAの職員が空港まで送り届けてくれ、その先の行き方を教えてくれました。最初のフライトはフランクフルトまで数時間でしたが、その後乗り継いだ東京までのフライトは12時間以上と大変なものでした。でも本当に大変なのは、到着してからでした。飛行機を降りると、まず山のような書類に記入しなければなりませんでした。場所を移動しては新しい書類への記入と確認、さらにまた別の場所に移動しては、また別の書類への記入と確認、といった具合でした。すべて英語と日本語で書かれていましたが、私と同様、そのいずれの言語もわからない人は少なくありませんでした。飛行機を降りてから空港を出るまで、実に3時間半以上、しかもこれだけ長時間に及ぶフライトの後のことです。
飛行機の乗り継ぎ、そして空港を出るまでで一番大変だったこと。それは言語の違う人々とのコミュニケーションが取れないこと、空港で記入し確認しなければいけない書類が自分で読み通す事さえ出来ないほど膨大で、その上確認作業もきっちりしなければならなかったことです。 今ここ東京で、私はウクライナで起こっている恐ろしい日々から、徐々に自分を取り戻しつつあります(最初の数日はまだ思い出すだけで自然と涙が流れましたが)。今後どう過ごしていくべきかまだ分かりませんが、今は小さな孫娘の子守りをして過ごしています。一日も早く《いつかきっとうまくいく(いつかきっとウクライナになる)》日が来ることを祈っています。
*《いつかきっとウクライナになる》は《いつかきっとうまくいく》という意味を表すフレーズです。
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◆代表者メッセージ(日本YMCA同盟総主事 田口 努)⇒
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軍事侵攻に反対し、平和を求める人々と連帯します 日本のYMCAは、第二次世界大戦における歴史的責任を認識し、『日本YMCA基本原則』において世界の人びとと共に平和の実現に努めることを誓っています。
今回の、ロシアによるウクライナ侵攻について、軍事侵攻に反対し、国際的な意見の相違があっても戦争が解決策になることはなく、対話と協力による外交的な解決策が見つかり、武力紛争が一刻も早く終結することを強く願います。
戦争は、日常生活を営む街を一瞬にして破壊し、両国の軍人が、命を奪い合い、ウクライナでは子どもを含めた多くの市民が人権と命の尊厳が奪われます。戦争が続けば、さらに多くの血が流れ、無辜の命が奪われます。その家族や友人、知人、そして私たちの悲しみの涙は、何万倍となります。今、このひと時も恐怖と不安の中にあるウクライナの人びとを想います。
ウクライナYMCAは古くは第一次世界大戦下から戦争下で苦しむ若者のために活動を始め、その後も共産党組織支配下においては水面下で、独立後は長く民族紛争、貧困に苦しむ若者・子どものための活動をウクライナ全土25カ所で展開しています。ウクライナYMCA、ロシアYMCAともに、複雑な歴史を辿りながらヨーロッパYMCA同盟に加盟し、連なっています。平和と公正を求め、人権と民主主義にもとづいた対話による平和構築、若者の就業・メンタルヘルスについて若者自身が中心となって課題解決に望むYouth Led Solutionに注力しています。
今回の侵攻直後から、ウクライナYMCAでは爆撃地から逃れる人々のための宿泊・食料・衣料品・衛生用品の提供を開始し、今後は子どもや若者の心理社会的支援を行っていきます。ウクライナ近隣諸国のYMCAでは連携を取り、24時間体制で避難民の受け入れ、生活支援が行われています。ロシア国内でも戦争反対のデモが行われていますが、現在の政治体制下では大きな力を持つことは難しい状況ですが、世界のYMCAでは平和を希求するすべての人びとと連帯していきます。日本のYMCAでは速やかに募金活動を呼びかけ、これらの活動を支援してまいります。
世界、アジアにおいて人権や民主主義が脅かされることがないよう、無力でも平和を求め祈り、日頃からの平和への希求の意思として武力による平和は無いこと、戦争反対の声を掲げ、平和を求める人との連帯の意思や行動を示していければと願います。
また、ウクライナやロシアと関係の深い日本国内の人びと、YMCAでも留学生をはじめ、会員及びご家族が大きな影響を受ける可能性があります。関係の方々へのサポート等、必要な対応を行い、偏見や差別を生まないよう努めます。
2022年3月2日 日本YMCA同盟 総主事 田口 努
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◆ウクライナYMCAと東京YMCAとの交流について⇒
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2002年にウクライナYMCAから「原因こそ異なるが被爆国である日本と交流したい」と連絡があったことがきっかけで、東京YMCAは20年余にわたって交流を続けています。
1986年のチェルノブイリ原発事故を経験したウクライナYMCAは平和への関心が高く、
・2004年:「平和と生命」をテーマに両YMCAで絵画コンテストを開催。
・2006年:「ピース・スタディーツアー」を実施して東京から3名がウクライナを訪問。
・2014年:ウクライナ危機の際に、子どもたちが手紙や動画を交換。
▽http://tokyo.ymca.or.jp/kikanshi/PDF/2014_5.pdf・今年2月末には、東京YMCAの英語幼児園「キッズガーデン」の園児たちが、ウクライナにお見舞いのメッセージを送りました。
(↓下記をクリックしてご覧ください。)
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