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東ティモール観察日記 
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*東ティモール支援:グローバル・オペレーティング・プラン(GOP)について
日本のYMCAは、世界YMCA同盟が進めるグローバル・オペレーティング・プラン(GOP)に協力しています。
GOPは、まだYMCAがない国や地域にYMCAを新たに創設すること、あるいは世界のYMCAの中で (1)明確な使命を持ち、
(2)社会状況に合った運動を展開し、(3)団体として責任ある組織を持つという点で、基準に達していない国のYMCAに対して
助言・協力を行い、組織の健全化・強化を図ろうという計画です。日本のYMCAは韓国YMCAと協力して東ティモールへ支援を
行うことを決め、2005年1月より3ヵ年、協力スタッフを現地に派遣しています。
日記の著者(協力スタッフ)石橋英樹さんの紹介はこちら(機関紙『The YMCA』2005年5月号「人」より)


*(特別寄稿)インターン大塚英彦さんレポートその3(2007年8月27日更新)  
*(特別寄稿)インターン大塚英彦さんレポートその2(2007年8月27日更新) *(特別寄稿)インターン大塚英彦さんレポート1(2007年8月)
ありふれたプログラム(2007年1月) クリスマス(2006年11月・12月)
美しい和解(2006年10月) 祭り(2006年9月)
生命の誕生(2006年7月) ピースユースキャンプ(2006年6月)
心の中の平和(2006年5月) 支援する側される側、その距離は…(2006年4月)
“教育”への支援(2006年3月) 結婚したいタイミングの裏側(2006年2月)
平和について考える (2006年1月) 東ティモールの娯楽について(2005年12月)
YMCAコーヒー事業始動! (2005年11月) 東ティーモールのコーヒー農業スタイル(2005年10月)
挨拶の効用 2005年9月 コミュニティーが支える小学校 2005年8月
言語切り替えスイッチについて 2005年6月 この地における宗教について 2005年5月
「Building Small Christian Community」研修に参加して感じたこと (観察日記番外編)2005年5月 東ティモール便り(1)  2005年4月12日



(特別寄稿)インターンレポート3
(2007年8月)

 

*地域の青年たちとのサッカー交流

   東ティモールYMCAインターン  大塚英彦(盛岡YMCA)


前回まで2回キャンプ前のことについてレポートしました。今回はキャンプ当日についてレポートを書きたいと思います。プログラムについてのレポートは各国の参加者が作成すると思いますので、今回は私がどんなことをして、どんなことを感じたのかを中心に書きたいと思います。
この東ティモールユースピースキャンプは香港、韓国、日本の海外3カ国と東ティモールの4カ国の参加者が集まり行われました。7月31日(海外組合流は8月1日)から8月8日までという9日間で平和に関連する様々なプログラムを行いました。ティモール人の参加者は大きく分けて3箇所から集まりました。1つは今までYMCAで活動してきたユースとその友達、2つ目はDili市内にある大学、もう一つはキャンプを行うテラサンタという地域の青年です。私がキャンプでした仕事は後でも書いていますが、キャンプ前半はプログラムやキャンプ自体の進行、その他は水や物品の調整や、学校の設備の修理、時間の調整など様々な仕事がありました。
31日から始まったキャンプですが、キャンプの最初は驚いたり、戸惑うことが多くありました。その中で大きなものはタイミングやペースの違いです。何か行動したり、話したりするときにその違いを感じました。海外組が合流してからも同じようなものは感じました。彼らには彼らのペースがあることはわかっていたのですが、最初はそれに戸惑い一人で焦ってしまいました。ペースをつかむ事が出来てからは、それに合わせた方法で、キャンプを進めることが出来ました。
キャンプの前半は私や一緒に仕事をしていた中村玄輝くんがプログラムやキャンプ自体の進行の仕事をしていました。しかし、途中からはティモールのユースが中心となってその仕事をやっていきました。後で石橋さんから聞いた話では、中心となって一緒に準備してきたメンバーから途中で「自分たちは準備だけだったのか?」という話があったそうです。しかし、それまでやってきた進行の仕事を急に交代することも出来ず、中途半端な状態が少しの間続きました。そのユースたちとの距離感が難しく、どこまで踏み込んで取り仕切っていいのかを考えることはキャンプ最終日まで続き、なんとなくその距離感がつかめたころにキャンプが終わってしまいました。
この他にも、参加者が色々な国から来ていることの難しさ面白さ、コミュニケーションの大切さ、など多くのことを感じることができました。また自分自身も初めての経験が多く、戸惑いもありましたが、それを消化し活動することが出来ました。
私と同じように参加者の方もたくさんのことを感じ、考えることができたキャンプだったと思います。プログラム、たくさんの出会いなどこの9日間という短い期間のキャンプはこれからの生活のきっかけになると思います。このキャンプで感じた様々なことをきっかけに、さらにいろんなことを考え、これからの生活で色々なことにチャレンジしてもらえることを願っています。

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(特別寄稿)インターンレポート2
(2007年8月)

 

*ポーポキのワークショップ日本グループ

   東ティモールYMCAインターン  大塚英彦(盛岡YMCA)


前回のレポートでは、キャンプ東ティモールに到着してすぐの状況と、キャンプ準備を少しだけ紹介しました。今回のレポートは準備でどのようなことをしたのかをレポートしたいと思います。
  私が関わった準備は大きく分けて2つありました。1つ目はティモールのユースたちが中心となって準備を進めた22つのプログラム(Peace School、合同礼拝)の準備、2つ目はキャンパーの受け入れの準備です。
  Peace Schoolはキャンプ中に行われるプログラムのひとつで、平和と関連付けて、絵・工作、ダンス、歌、スポーツの4つの活動を子どもたちと共に行うというものです。準備では、まず4つのグループに分かれて、リーダーを決め、そこから各グループでミーティングを始めました。この準備は、これまで毎週やっていた平和に関するワークショップの延長上で行われました。私が入ったのはスポーツのグループで、ミーティングではたくさんのゲームやレクレーションのアイデアが出る中で、参加する子どもたち全員が楽しく、ハッピーになれるものということを重点に話し合いが進みました。なかなか全員がそろわない中、テトゥン語の辞書を片手に、中心になる人たちとのミーティングを何度か行い、Peace Schoolでどんなことをやるのか、2日間のスケジュール、道具リストなどを作りました。色んなことを話しながら1つのものを決めていくミーティングは、日本でやっていたミーティングを思い出させられます。ただ、話が盛り上がると何のためにやるのかということを忘れてしまうときがあったので、「何のためにやるのかということも大事なこと」ということを伝えました。ただ、彼らが楽しみながら話し合い、考えていくことが重要だと思っていたので、どのように話しに入って行くかが難しい部分で、考えさせられました。
  合同礼拝は近くの山で行うもので、その山には登る道沿いにキリストが死刑の宣告を受け、復活するまでの出来事を14に分けそれを石碑にしたものがあります。それに沿って当時の出来事を演じながら登っていき、当時キリストを殺した人々の気持ちになって見て、最後に礼拝を行い、平和への誓いを行うというものです。この準備は私たちは少しサポートをするというだけで、ほぼ全部こちらのユースが行いました。シナリオを作り、何度も練習を繰り返し、現地でのリハーサルも何度も行いました。
  2つ目の受け入れ準備は、前回のレポートにも書きましたが、ポーポキの絵本の5ヶ国語バージョンを作ること、キャンプ中キャンパーが使うキャンプブックを作ること、宿泊場所となる学校や活動を行うセンターの準備などがありました。キャンプブックには学校やセンターのマップや、英語とテトゥン語の対照表などが入り、英語やテトゥン語を使う機会が多く、パソコンと辞書を使いながらの作業でした。学校やセンターの準備はまさに肉体労働。宿泊する教室に蚊帳を張ったり、教室や外に電気を通して蛍光灯や電球とつなげたりという作業がキャンプ前5日前くらいから毎日続きました。学校にはシャワールームも無いので、シャワールームも作りました。このような施設の準備で感じたことは、ティモールの男の人はすごいということ。無いもの、必要なものは全部作っていきました。
準備を通して感じたことは、プログラムの準備などユースと話したときは、最初は恥ずかしがってあまり話しませんが、話が進み打ち解けてくるとたくさん話すようになりました。そうなると、自分の持っている意見や、思いついたことはどんどん話して、会話が盛り上がっていきました。内容はプログラムに関することで、ミーティングをやっているのですが、まるでおしゃべりをしているように話し合いが進んでいきました。こんな雰囲気のミーティングは日本ではなかなか無い光景かもしれません。学校やセンターなどの準備では、私の何かを作ることや準備するという概念が崩されました。無いものは1から作る、問題が起きて必要があれば物を壊して解決する。何でもできるティモール人がすごいと思いました。
  このような様子で準備は2週間前から、そしてキャンプ中も少し行いました。次回のレポートではキャンプ中どんなことを行ったのかについて書きたいと思います。

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(特別寄稿)インターンレポート1
(2007年8月)

 

*左端の青いシャツが大塚英彦さん

   東ティモールYMCAインターン  大塚英彦(盛岡YMCA)

   『東ティモールに来て3週間が過ぎました。この3週間色々なことがありましたが、 生活にも慣れ、楽しみながら生活を送っています。
東ティモールの首都Diliで生活していますが、今まで行った、スリランカ、タイ、ラオスなどの首都に比べると小さな町です。雰囲気は似ているものがあり、車やバイク以外はのんびりと時間が過ぎています。ただ、今まで行ったどの国、どの町よりもUNという文字、車が多いです。今は以前に比べるとUNよりはUN Policeが多いようです。国連警察というものです。町の中心部にオーストラリア軍の基地もあります。このように、治安維持には外国の力が多く関わっているのが現状です。また、市内あちこちにテントがあります。その多くにはUNHCRの文字が書いてあります。ここに暮らす人のほとんどは、昨年の騒乱の中で家を失った人たち(難民)で、東部出身者がほとんどです。家自体を焼かれたり、壊されたりして失ったり、家に他の者が住んでしまったりして、テント生活を余儀なくされています。1年たった今も家が無く戻れなかったり、怖くて戻れなかったり、中にはテント生活に慣れてしまった人もいるようです。これが現在のDiliの状況です。
Diliの西のはずれ、空港のすぐ近くに、東ティモールYMCAの事務所兼住居があります。ここでは私も含め3人の日本人と2人の韓国人が暮らしています。韓国人の二人は韓国YMCAのスタッフです。1人はコーヒーの仕事があるため、週末だけDiliに帰ってきて、週の初めにはまたSameというコーヒーを栽培している地域に向かいます。ということで、ほとんどは4人で共同生活をしています。活動のほとんどはここで行っていて、到着してから1週間ほどのテトゥン語の授業もここで受けました。この国では一部の人は英語も話せますが、ほとんどの人が話せません。ですから、コミュニケーションをとる上でテトゥン語は必要不可欠です。1日3時間ティモール人の先生が来てくれて授業をしてくれました。一緒に暮らしている韓国人にも先生にもテトゥン語は簡単といわれますが、新しい言語を使えるようになることはやはり大変なことです。1週間の午前中はテトゥン語の授業に費やすことになりました。他の時間にユースのキャンプ準備の手伝いや、パソコン教室のパソコンのアフターケアなどを行いました。ユースと仲良くなり準備をしているときは輪の中にはいりますが、まだ何をしゃべっているかはほとんどわかりません。仲良くなるのは簡単で、笑い合って楽しく過ごしていますが、その次のことは言葉がわからないと苦しいし、真剣な議論などはほとんどわからなくなってしまいます。本当の意味で彼らの輪の中に入るためにテトゥン語も頑張らなければと思います。
この3週間の後半はキャンプ受け入れ準備が仕事のほとんどで、キャンプで一つのキーワードとなる『ポーポキ』という絵本のプリントと、それに載せるテトゥン語と韓国語の整理とレイアウト、他にはキャンプブックに載せる英語とテトゥン語の対照表作りなどとデスクワークがほとんどでした。キャンプまで1週間となりこれまで以上に準備で忙しくなりそうです。
3週間を過ごして思ったことは、私が活動してきた盛岡YMCAとの違いです。盛岡での活動中は子どもたちが常にいました。盛岡で活動しているときに「子ども」がキーワードになるように、東ティモールでは「平和」がキーワードになります。こちらのユースたちもそのための活動をしています。その違いに自分の中で考えることが多くありました。平和とは何か?自分の幸せや平和とは?東ティモールに住んでいるユースたちの幸せや平和とは?それに違いはあるのか?など多くのことを考えました。まだ答えは出ていませんし、これからも、もっと考えることや悩みが出てくると思いますが、じっくりと考えていきたいです。』

2007/7/24  大塚英彦

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ありふれたプログラム
(2007年1月)

 

 

  年が開け2007年になり、東ティモールYMCAでは気分も新たにいくつかのプログラムが始まった。その一つがテラサンタ地域の子供たちを中心としたサッカー大会だ。テラサンタと周辺の地域から12歳から15歳までの子供たち、16チームが参加する大掛かりな大会だ。
  少年サッカーは、おそらく世界中のYMCAで行われているだろう。YMCAプログラムの王道だ。だから、東ティモールでもやっていると聞いても、「なんだ、そんなありふれたプログラムか・・」と思う人もいるかもしれない。しかし、私にはそんなありふれたプログラムを始めるために、2年近い時間が必要だった。それを始めるために必要なものを探していたからである。
実は、東ティモールに赴任した当初から、少年サッカーを始めるぐらいには十分な予算をもらっていたし、みんなサッカーが大好きなこの国では、どこへ行ってもサッカー場も、サッカー選手も、サッカーボールもすぐに見つかった。では、何を探していたのか。それは、働く人、である。といってもスタッフ、という意味ではない。サッカーが好きで、子供たちが好きで、YMCAと一緒に働いてくれる人である。
「それは、あなたの仕事でしょう。」という意味のことをYMCAの人から言われたことがある。もちろん、私自身が子供たちを集めてチームを作り、サッカーの練習や大会をすることはできる。昔、まだ今ほどお腹が出ていなかった20代のころ、私だって日本の小さなYMCAでサッカーのリーダーをしていたのだ。しかし、私には自信がなかった。お腹が出てきた今、サッカーを教えることに・・・ではなく、東ティモールYMCAが少年サッカーをすることが適切なのかどうか、という判断にである。
どこの国のYMCAでもやっているから、という理由でサッカーを始めるのは間違っていると思う。自分にできることだから、という理由で始めるのも間違っていると思う。
東ティモールYMCAのプログラムとしてサッカーを始めるのであれば、それは、東ティモールの人たちが子供たちにサッカーを通して強く健康な子供に成長してもらいたい、チームワークや思いやりを学んでもらいたいという願いを持っており、そして、さらに大切なことは、彼ら自身がその役割を果たすことができる、という条件が必要だと思う。
東ティモールの人たちの力が発揮されるものでなければ、私がどんなプログラムを実施して何人の人たちが集まっても、それは、外国人が旗を振る、その場限りのもので終わる。別段サッカーに限ったことではない。外国人がやってきて、何か新しいことが始められたものの、その外国人が手を引いた途端に廃棄されてしまった村落センターなどを見るたびに、そう感じてきた。
幸いなことに、過去2年間の試行錯誤的な活動の結果、私は一緒に働いてくれる数名の若者たちと出会い、彼らと一緒に少年サッカーをしよう、と考えることができた。今回の大会が終わったら、そのままサッカー教室に移行していき、大会も定期的に行っていく計画である。
大会の運営は、まだまだ無駄も多く、しばしば問題も発生する。先日は、あるチームにいつの間にか17歳の選手が紛れ込んでおり、他のチームたちから抗議があった。そんな時、大会運営に携わる9名の青年たちはYMCAの事務所で何時間も会議を重ね、どうやったらこの問題を解決し、予防できるかを話し合った。彼らは高等教育を受けているわけでもなければ、サッカー指導者として特別な訓練を受けているわけでもない、普通の青年たちである。しかし、彼らはサッカーが好きで、子供たちが好きで、そして、YMCAと共に働いてくれている。それで十分だ。YMCAとかかわることで少しずつ成長してくれればよい。その手助けをすることこそが私の仕事だと思う。もちろん、サッカーに参加している子供たちも同様だ。
ありふれたプログラムである少年サッカーだが、そのありふれたことを実行するまでに、いろいろな思いや悩みがあり、いろいろな人との出会いがあった。そのことを考えながら、おそらく日本でも韓国でも、そしてそのほかの国でも、YMCAが少年サッカーを始めたときから今まで、たくさんの人が思い、悩み、力をあわせ、苦労してきたのだろう、と思った。
ありふれたプログラム、とはなんと失礼な言い方だろう。世界各地のYMCAの先輩、同僚のみなさん、ごめんなさい。


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クリスマス
(2006年11・12月)

 

 12月の東ティモールでは、みんな落ち着かない日々を送っている。クリスマスだからだ。
人口のほとんどがクリスチャンである東ティモールでは、やはりクリスマスは1年で最大の年中行事だ。普通、12月25日のクリスマスを待ち焦がれるのが24日のイブだが、ここでは、何だか12月全体がクリスマス・イブのようだ。11月からクリスマスカードの準備を始め、12月に入るとツリーなどが飾られる。気温30度を越えるような暑さの中、サンタの帽子をかぶって町をうろつく人たちも見受けられる。
  そうしたクリスマスの準備の中でも、東ティモール独特のものが、馬小屋作りだ。毎年、12月のはじめころから、ディリ市内のあちこちで地域の青年たちが力をあわせて馬小屋を作る。馬小屋とはもちろんイエス様が生まれた場所である。
2〜3メートル四方ぐらいの場所に木や竹などで小屋を作り、絵で描かれた、あるいは人形で再現された生まれたばかりのイエス様とそれを見守るマリア様がその中央に置かれている。そして、その周りには博士、羊飼い、天使などが立っており、少し凝ったものでは小屋の上空に星が輝いていたりする。さらに夜になるとその馬小屋を飾る電飾がピカピカと輝いている。
どんな材料を使い、どんな登場人物が出てくるのか、それぞれが創意工夫を凝らして作るので、100個あれば100個とも違う馬小屋ができる。
  私はこの馬小屋を見るのが大好きだ。大きな教会の中にあるものはやはり材料も高級そうなしっかりしたものを使っており素晴らしい。また、小さな町の片隅にある馬小屋も素朴でいい。しかし、馬小屋の外観よりももっと素敵なものがある。それは、この馬小屋を作るために青年たちが黙々と、時にはバカ騒ぎしながら働いている姿だ。
  東ティモールの人たちを見ていると、「家族」という単位のつながりが非常に強く感じられる反面、「地域」や「共同体」という意識が弱いように思える。そんな東ティモールで、最も「地域」のつながりが感じられるのがこの馬小屋作りだ。何人もの青年たちがクリスマスを前にして力を合わせて馬小屋を作っている様子は、実に素晴らしいと思う。

クリスマス前の数日間、そしてクリスマスを平和に迎えた12月、ディリの町は平穏だった。いや、平穏だったといっても、決して静かだったわけではない。クリスマスを祝う(?)ための花火や爆竹が昼も夜も鳴り響き、あちこちで音楽がなり、ダンスに興じる若者たちの歓声が響く、非常にうるさい12月だった。
しかし、10月や11月のような大きな騒動はなかったように思う。この数ヶ月間、悩まされ続けてきた政治的な対立や経済的な困難をしばしの間忘れることのできる12月だった。そうした問題を、「忘れる」ことでは何も解決できないことはわかっているが、それでも、毎日毎日そうしたことに直面している人々にとって、しばしの休息は必要だ。
今年は本当に大変な年だった。東ティモール人にとって、独立以来、最もつらい1年だった。騒乱の中で愛する家族や友人を失った人々、家を焼かれ、あるいは追われて、避難民キャンプでの生活を強いられている人々、そして、互いに対立し、抗争に明け暮れる青年たち…。みんな、名もない小さな人々だ。そんな小さな人々にも国を治めるような大きな人たちにも、そして、暴力から逃れて避難生活を送る人にも、暴力に訴えて自分たちを誇示している人たちにも、クリスマスの運んでくる幸せは平等にやってくる。
毎年、世界中に、こんなに暑くて小さな南の島にまでサンタクロースが運んできてくれるのは、きれいに包装された高価なプレゼントではなく、家族や友人たちとともに過ごす平和で穏やかな時間なのかも知れない。
ディリ最大の商店街で、日本の真夏のような気温の中、おなじみの赤と白の衣装を着て子供たちにお菓子を配っているサンタを見て、そんなことをふと思った。

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美しい和解
(2006年10月)

今、東ティモールでは政府主導で「SIMU MALU」というプログラムがいろいろなところで行われている。SIMUは「受け入れる」、MALUは「お互い」という意味のテトゥン語だ。つまり、「お互いを受け入れましょう」という和解のためのプログラムなのだ。
今、東ティモールは独立以降最大の危機を迎えている。国防軍内部で問題化した東部出身者による西部出身者への差別問題(決して東ティモールと西ティモール間の問題ではない。東ティモール国内の東部と西部である。)が、いつの間にやら国を二分してしまうような東部出身者と西部出身者間の対立という構図に落ち着いてしまった。外国人の目には、何者かによってつくられた政治的な、あるいは人為的な問題に見えるのだが、当の東ティモール人の間では、すっかりと国内最大級の葛藤として定着してしまった感がある。
数多くの東部出身者の家が焼かれ、焼け出された人たちは今でもディリ市内数十箇所にある域内避難民キャンプで生活している。そこには焼け出された人たちだけではなく、治安の悪化のため怖くて家で眠れない、という人たちも多く住む。これらの人々には西部出身者もいれば東部出身者もいるのだが、キャンプ内では、何となく住み分けているらしい。キャンプだけでなく、もともと東西出身者が入り混じって暮らしていた一般の住宅地域でも、今は何となく住み分けが出来ている。
苛酷な環境の中で半年以上にわたってキャンプで生活している人たちはもちろん、いつ襲われるかと戦々恐々としながらも自分の家を守るために避難せずに自宅でがんばっている人たちも、その不安、不満、怒りや無気力などマイナスの心理的要素は日に日に高まっていく。特に、もともと何もすることの無い失業状態にあった多くの若者たちは、こうした環境からくるストレスもあり、他の若者たちと衝突してしまう。さらには、こういった事態とは無関係に、もともと存在していた一部の暴力的な集団が騒ぎを起こし、それを大きくする。こうして、今でも毎日ディリのどこかで集団同士の衝突がおき、車が壊され、家が焼かれ、若者たちは傷つき、時には命をも落とすことになる。
こういった状況を何とかしようと始まったのが、このSIMU MALUだ。詳しい調査をしているわけではないので、人からの伝聞による情報しかないのだが、どうやら政府の偉い人が来て、「東ティモールは一つです。東も西もありません。みんなでお互いを受け入れて、和解をしましょう。」というお話をしてくれるらしい。そして、みんなでスポーツをしたり話し合いをしたりという流れになる。
果たして、このSIMU MALUが人々の和解を促進させるのにどれほど効果があるのかは、これから見極めていかないとならないが、これが東ティモールの人たちが考えた和解のための第一歩なのであるから、是非、継続的、発展的に続いていくことを願う。そして、その中で私に出来ること、YMCAにできることを見極め、ともに働いていきたい。
私が住んでいるテラ・サンタという地域でも、これからこのSIMU MALUを政府主導ではなく独自に始める。隣接する他の2つの村と合同で進められるこのプログラムにYMCAも共同で参加する。私たちのプログラムでは、偉い人のお話はとりあえずおいといて、まずは、3村からノミネートされた10チームが優勝をかけて争うサッカー大会から始める。W杯よろしく何日間にも及ぶトーナメントをして、その決勝戦の日に住民たちによる和解のための討論会を開く予定だ。
ただひとつ心配なのは、サッカーというスポーツは時として人々を必要以上に熱くすることだ。これまでにも、他の地域では和解のためのサッカー大会が原因で喧嘩が深刻化してしまった事例もいくつかあったようで、私たちの大会でも、問題を起こしたチームは不戦敗、というルールをつくった。果たして、優勝するのはどのチームか。優れたテクニックや固いチームワークを持つチーム?それとも、最後まで喧嘩しなかったチーム?・・・

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祭り
(2006年9月)

 
   

 8月の満月の夜、YMCAのコーヒー事業の現場を見学したいという人たちと首都ディリから車で5時間かけてサメに着いたとき、ちょうどサメの教会の広場で年に一度の祭りが行われていた。
設置された展示場には周辺の村々から集められた手工芸品が展示されており村人たちがいろいろと説明をしてくれた。タイスと呼ばれる手織りの布が主な展示品だが、木彫りの器や置物、金属製の装飾品や刀など、多種多様なものが置かれていた。東ティモールで暮らし始めて1年半が過ぎたが、この国でこんなに工芸品が展示・販売されているのを見るのは初めてだ。
そうこうしていると、影ができるほど明るい月明かりの中、展示場の前に20人ぐらいの男女が集まり、手をつないで輪になり、ゆっくりと回りながら歌を歌いはじめた。歌は地元の言葉で歌われており、私はもちろんのこと、東ティモール人スタッフに聞いても意味はよくわからなかったが、みな伝統衣装をまとい、金属や鳥の羽の飾りを身につけて、広場に良く響きわたる太く、そして澄んだ声で歌う様子を見ていると、まるで数百年の時の流れをさかのぼったような錯覚すら覚えた。
しばらくの間、その歌に聴き入っていると、今度は広場の反対側からスピーカーを通した大きな音で東ティモールの若者たちが好むダンス音楽が聞こえてきた。それまでは静かな夜の教会に響き渡っていた歌声も、それをまったく無視するように流れてきたダンス音楽のせいでよく聞こえなくなり、聞いている私たちの雰囲気もぶち壊されてしまったが、歌っている人たちは別段に気にする様子もなく、これまたダンス音楽を無視するように歌い続けていた。
どうやらダンスパーティーが始まるらしい。よく見るとここで歌を歌っているのは老人(いや、中年?東ティモールの人たちは見た目では年がわかりにくい・・・)たちで、若者はいない。東ティモールの人、特に若者たちはダンスが大好きだ。この国は東南アジアに位置するが、文化的にはかなりラテンの要素が入っていると思う。もちろんポルトガルの影響なのだろうが、バイオリンやギターによる演奏を中心としたポルトガル語の軽快な音楽に合わせて、これまた軽快なステップで男女が夜遅くまで、いや、一晩中、踊り続ける様子は、まるで中南米に来たような感じさえする。
伝統衣装を身にまとい力強い声で歌い続ける老人たちと、お洒落なドレスを着て一晩中ステップを踏み続ける若者たち。どちらも、日常生活をいったん止めて、非日常である祭りを楽しんでいる。その祭りから、また日常を生きていくための活力を得ているのだろうか。雨季と乾季がある以外は大きな気候の変化も無く、ただただ過ぎていく日々を暮らしているだけのように見える東ティモールの人たちの生活も、こうした祭りによってリズムが生まれ、アクセントが刻まれるのだろう。
こうした祭りには数百、数千ドルのお金が動く。もちろん、すべてが現金なわけではなく、牛や豚やヤギなどが数十頭というのも含めてだが・・・。長いもので1週間も続く祭りの期間中、人々は歌って踊って食べて飲む。その消費量も莫大なものになるはずだ。さらに、祭りの場所には、即席のカジノが作られたり闘鶏やトランプなどにも人が集まったりで、老若男女が賭け事を楽しむ。
これといった国内産業の無い東ティモールで、祭りは国内経済の循環に大きく寄与しているとは、長らくこの国に住んでいた日本人の友人の言葉だ。それを聞いたとき、以前、韓国から来た新聞記者がYMCAのスタッフに、「コーヒー事業のおかげで村人の収入が増えたら、彼らの生活はどう変わるでしょう?」と質問したところ、「さぁ。でも祭りの回数が増えるかもしれませんね。」と答えていたことを思い出し、確かに、と納得した。経済の循環、これもまた、祭りの効用なのだろう。
*写真は(残念ながら)本文中の夜の祭りとは別の祭りです。

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生命の誕生
(2006年7月)

  東ティモールという国では長い間「世界で一番新しい国」というキャッチフレーズが使われてきた。しかし、最近モンテネグロという国が独立したというニュースを聞いたので、東ティモールが世界で一番新しい国ではなくなってしまったようだ。新しい国の誕生を祝うべきなのだろうが、東ティモールがもっていたキャッチフレーズをひとつ失ってしまったことが残念でもあった。
  とにかく、東ティモールは2002年に国際社会から独立を承認されて4年が経ったばかりの新生国家だ。独立以来、いや、その準備段階から国連などによる“親身な”指導で国家としての形はかなり整ってはいるものの、国として本当に一人立ちできるようになるにはまだ時間が必要だろう。人間に例えると、姿は大人とあまり変わらないが、まだ家族や地域による支援が必要な子供だ。「君ももう一人前なんだから」と大人と同じように扱おうとしても、まだその準備ができていない。こんなことを言うと、東ティモール人や東ティモール支援に関わっている人たちからはお叱りを受けそうだが、今年になっての一連の騒乱は、やはり、こうした現実を証明しているのだと思う。
また、この国は国家として若いだけでなく、国民も若い。2003年の統計によると、この国の全人口のうち、15歳以下の人口が全体の51.6%となっている。国民の2人に1人以上が子供なのだ。東ティモールの年齢別人口構成を示したグラフ、いわゆる人口ピラミッドを見ると、子供の人口が極端に多いことがわかる。特にインドネシアへの併合拒否を表明した1999年以降に生まれた子供たちの数が非常に多く、今東ティモールはベビーブームの真っ只中といえる。同じく2003年のデータでは、一人の女性が生涯に産む子供の数は7.8人と世界最高水準だ。これが他の発展途上国並みの5人になったとしても、2031年には人口は今の2倍近い188万人を越えると予想されている。
これからもどんどん増えていくであろう子供たちにどうやって教育の機会と質を保障していくのか、現在でも失業率60%とも80%とも言われている状況がどうなっていくのか、それでなくても輸入への依存度が高いといわれる食料をこれからも確保できるのか・・・人口増加に伴う深刻な問題は山積みだ。
また、グラフをよくみると20歳代の人口が、他の世代に比べて少ないことがわかる。当時の20歳代は、東ティモールがインドネシアに占拠されていた時期に生まれた人たちだ。人口2億人を越える巨大国家インドネシアは、これ以上の爆発的な人口増加を防ぐために人口抑制政策を推進している。東ティモールがインドネシアによって支配を受けるようになった後には、当然、その政策も東ティモールに適用され、人口が減少することとなった。
しかし、この家族計画の推進は、女性たちの十分な理解や自発的な参加に基づくものとは程遠い、かなり乱暴な方法で行われていたようだ。本人には何であるのかを十分に理解させないまま妊娠を抑制するホルモンを投与したり、村長が自分の成績を上げるために村の女の子に強引に処置を受けさせたりなどといったことがあったと聞く。同様のことは今でもインドネシアの各地で行われているかもしれない。
また、人口の減少は出産を抑制したためだけではないこともグラフをよく見るとわかる。この20歳代の世代において男性が少ないのもインドネシア支配の影響だと思われる。インドネシアによる暴力的支配の中、命を奪われた人、あるいは、おそらく生きてはいないと思われる行方不明者たちがこの世代の男性に多かったことが推測される。
我々人類は生命そのものをコントロールすることはできない。しかし人口、つまり生命の数をコントロールすることはできるのだということをこの人口ピラミッドを見て考えた。我々人類は力ずくで子供を生ませないことができる。さらには、生まれた生命の数を減らすことさえもできるのだ。
このグラフやデータの1%が数千、数万もの生命を意味していることを考えると、この人口ピラミッドは、昔、学校で習ったのとは違う意味で、我々人類が直面している現実を見せてくれている。
*参考資料: Timor Leste Demographic and Health Survey 2003  Presented by Michael Dibley, Terenshull on September 2004

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ピースユースキャンプ
(2006年6月)

 
   

 毎年、夏休みの時期になると、世界中で各国の青少年たちが参加する国際交流・国際協力のためのキャンププログラムが 行われている。日本だけでなく世界各地のYMCAでも、そうしたプログラムを長年にわたって実施していることは、これを読んで いる皆さんもよくご存知のことと思う。
東ティモールYMCAでも8月3から13日の日程で、第2回YMCAユースピースキャンプを予定していた。今回のキャンプでは、昨年の第1回キャンプの舞台であった首都ディリにある小さな学校でのピーススクール(音楽・美術などを通して子供たちが平和の大切さを実感できるような授業を行うプログラム)などに加え、東ティモールYMCAが韓国YMCAと協働でコーヒー事業を行っているサメという地域でもコーヒー生産を地元の青年たちとともに行いながら、世界経済における南北問題や生産者と消費者との関係を考えることで、平和を阻害するものが戦争や暴力だけでなく、経済格差や貧困にもあることを理解するためのプログラムなどを盛り込む予定だった。前回の経験を生かし、さらに平和について考えたり学んだりできる、より充実したキャンプにしようと、春先から日本YMCA同盟、韓国YMCA聯盟と協議を重ねてきた。また、参加者も日本、韓国、東ティモールを中心に香港、マカオ、シンガポールなどからも集まる見込みだった。
しかし、3月末から顕在化し始めた国防軍内部における出身地域間の対立に始まり、5月の反乱軍と国防軍、警察による武力衝突と国際部隊の投入、さらに機に乗じた形での市民同士の殺人・放火・略奪にまで発展した東ティモール治安情勢の悪化を受け、6月はじめ、アジア太平洋YMCA同盟、日本同盟、韓国聯盟との協議の結果、キャンプの実施を延期することに決めた。
2ヵ月後の治安の見通しが明るいものではなく参加者の安全確保に確信がもてない上、予定通り実施をするのであれば、具体的な準備や参加者募集に本格的に取り組まなくてはならない時期に、私自身を含む東ティモールYMCAに関わる人々、いや、ディリ市民のほとんどが避難生活を送らざるをえないでいる、という状態では延期の決定もやむを得なかったと思う。
しかし、皮肉なものだ。YMCAのプログラムには「平和」をテーマにしたものが多い。東ティモールでのYMCAキャンプも、ワークキャンプでも、スタディツアーでもなく、ピースキャンプだ。そのピースキャンプが、東ティモールが平和ではなくなったために延期となってしまった。
この原稿を書いている6月中旬の時点では、ディリ市の状態も少し安定してきているように見える。ただし、その安定をもたらしているのは、機関銃や自動小銃で武装して街をパトロールする外国兵と、大きな音で街を走り回る装甲車と、24時間ディリ上空を飛びまわる戦闘ヘリコプターだ。今の東ティモール人にとって、自国の政府でもなければ警察でもない、この国際軍だけが自分たちに平和と安心をもたらしてくれる存在なのだ。
情勢の安定にほっとしながらも、この状況に疑問を感じているのは私だけではない。数日前に再会できたYMCAの青年メンバーは、「政府の能力不足を批判するだけではなく、国連などの国際支援に頼るだけではなく、自分たちの手で平和を手にするために、自分たちで努力していかなくてはならない」と熱く語っていた。そうした思いは、もっと多くの青年たちも持っているはずだ。
彼らの思いを東ティモールYMCAの活動に結び付けていきたい。多くの国から参加者が集まるはずだった8月のキャンプは延期になってしまったが、この夏、どの国のYMCAのキャンプ日程にも載っていない、東ティモールYMCAだけのYMCAピースユースキャンプをやろう。

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心の中の平和
(2006年5月)

 
   

 東ティモールという国に「平和」という言葉を結びつける人は、この国のどういう部分を見てそう感じているのだろう。このことは私が東ティモールに来てから考え続けてきたことの一つだ。1年以上この国で暮らしていても、私の中で東ティモールと「平和」がなかなか結びつかないのは、その社会をいくら観察しても「平和」というものを特別なものとして意識するようなことがなかったからだと思う。独立国として新しいスタートを切り、経済的にはまだまだ苦しい状況ではありながらも、人々はたくさんの家族に囲まれながら、自然とともに日々をたくましく生きている。逆に言うと、「平和」を意識せざるを得ないような、「紛争」や「対立」や「葛藤」が、独立以来時間を経るごとにだんだんと目に見えにくくなっていると言える。首都のディリでは「貧困」でさえもそうだ。そういう「平和」意識せざるをえないような「平和」とはかけ離れた時期を、東ティモールすでに脱したのだ、と私は考えていた。しかし今年に入ってその考えは、新たな葛藤の顕在化により一気に打ち砕かれてしまった。
それは、東部出身者と西部出身者の間の葛藤という形であらわれた。対立の激化は国軍内部での差別に対する抗議行動がきっかけだった。東部出身者により差別的な待遇を受けていたという西部出身者たちが抗議行動を起こしたところ、政府は彼らを国軍から除隊処分してしまった。その数は600人近くにものぼり、国軍兵士の約4割に当たる。4月下旬には処分を受けた元兵士たちがディリ市内でデモを行ったのだが、政府から満足な回答が得られない、として車や家などに放火するなどして警察や国軍と衝突、4名が死亡、数十件の家が焼失、という事態となった。その際には私の住んでいる地域が衝突の舞台となったため国軍により封鎖され、私も数日間、ホテル住まいを余儀なくされた。このころから人々の間では「来週、デモ勢力が再び結集し、再蜂起するらしい」という情報、というか噂が流れ始め、それをうけてディリ市民のかなりの数が西へ東へ、それぞれの生まれ故郷へと避難した。ディリの都市機能は麻痺した。その後も事態は沈静化せず、西部の地方都市では、デモ勢力と警察が衝突し、東部出身の警察官1名が死亡した。そのため
に東部地域ではこれに抗議するための動きが見られるなど、今後も暴力が暴力を呼ぶ事態になるのでは、と人々は心配している。
今回の事態を通して、もっとも衝撃的だったのは、普段、平和であることを意識する必要がないほど平和だったはずの生活が、実は非常に不安定なもので、何かことが起こると一瞬のうちに打ち砕かれてしまう、という現実であった。焼け落ちる家から出る黒煙、鳴り響く銃やサイレンの音は、一気に人々の意識を独立前の状態に引き戻した。
「戦争だ」と叫び大きなナイフを握り締めて走り回る人々、運べるだけの荷物をもって避難してきた人たちでごった返す教会や国連の施設、全くといってよいほど人の気配のない市場、逆にこれから地方へ避難しようという人たちの車が長い列を作っているガソリンスタンド…
私はこの、平和とはほど遠い東ティモールの人々の姿を見ながら、彼らの心の中にある大きな恐怖心、しかも、独立以前の経験から生まれ、いまだに人々を縛っている恐怖心を感じ取った。この恐怖心に支配された人々には、事態は終息に向かっているという政府の声明よりも、治安を再び乱すような新しい動きはないという国連の発表よりも、どこかの誰かが言っていた、「来週、再び武力衝突があるらしい」「いや、明日らしい」という言葉のほうがはるかに現実味があったのだろう。
独立を決めて以来、国連をはじめとするさまざまな支援がこの国に「平和を構築」するために行われてきた。世界中の平和構築のための知識や経験が、巨額の資金とともにこの国に投入されてきた。しかし、表面上は人々の間の和解も進み、平和が構築されていたように見えたこの国でも、人々の心の中にある平和は、まだまだ、もろく弱いものであった。
今回の事態は、世界中のあちこちで報道されているような悲惨な事件と比べると、小規模なものだったのかもしれないが、その中にいた私には、我々が住んでいる世界の現実を垣間見ることのできる経験だった。
心の中の平和。今回の事件を経験しながら、人々が恐怖を乗り越え、暴力を乗り越え、この心の中の平和を実現できるよう祈った。
そして、そのためにこの国の青年たちとともに考え、悩み、行動していきたいと思った。                                                 
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支援する側される側、その距離は…
(2006年4月)

 東ティモールに赴任してすぐの頃、日本人の友人とともにある漁村を訪ねた。その友人は、あるNGOの現地駐在員として働いており、その漁村の村人が生産者組合をつくって漁具を管理したり魚を販売したりするのを支援していた。YMCAを立ち上げる、という仕事のために、どのように現地の人たちと接していけばよいのか、どんな活動が必要なのかなどを日々考えていた私は、その組合の会合がある日にあわせて友人とともに訪れたのだ。
  その日、会議は朝から予定されていたのだが、運の悪いことに(?)ちょうどその日は市場の立つ日と重なってしまった。組合のメンバーたちも朝から市場に(実は市場の隣でやっている闘鶏場に…)行ってしまい、時間になっても誰も来なかったのだが、私と友人が話をしたり、集会所の周りをブラブラしたりしているうちに一人、二人と集まり始め、お昼ごろには役員を始めとして7〜8人が集まった。一緒に昼食をとった後に会合が始まり、干し魚を作って売る方法や、合同で漁に出てもっと大きな魚を取る方法などが積極的に話し合われた。私も当時は(今も?)彼らが何を言っているのかまったくわからなかったのだが、友人に要点を通訳してもらいながら、会合の様子を観察していた。
  観察していて気がついたのだが、話し合いの途中にしばらく沈黙が続くことが何回もあって、その度に集会所の隅に座っている青年に視線が集まっていた。友人の話によると、この青年は組合の会計を任されているのだが、最近は十分にその役割を果たすことができずにおり、皆もなぜそうなのかよくわからないそうだ。だから議論の最中に話の流れを“さりげなく”彼の方に向けるのだが、本人はただ黙っているだけで、結局、他の人も何か直接質問することもなく、話の流れは再び“さりげなく”他の話題に移っていくということを繰り返しているのだという。
  ことはその青年の家庭の悩みでも恋の悩みでもなく、組合の会計である。もっと強く問いかけてもいいようなものだが、どうやら彼らは問い詰めたり非難したりということに大きな抵抗を感じているようである。「何かあったのか?」と問いかけても返事がなければ「ところであの件だけど…」というふうに別の話題に移っていく。このあたりのメンタリティーには東ティモールの人たちと一緒に働く際に注意しろ、と頭の中で警報がなる。
結局その日は会議の終了間際に友人が彼に直接問いかけ、彼も重い口を開き、理由を述べて会計をこれ以上続けられないことを話し、他の人の中から新しい会計が選ばれた。その理由も何だかよくわからないものであったが、そのことをとやかく言う人もいなかった。
友人は支援をしている団体から来ている外国人だ。だから彼女が尋ねれば返事は帰ってくるし問題も解決する。では、始めから彼女が割って入ればよかったのか…。
彼が会計を続けられないことは始めからほぼ明らかだった。そうすれば誰かが新しい会計にならなくてはいけないことも明らかだった。友人は自分が口を開いて問題を解決するべきかどうか最後まで悩んでいたが、彼女が口を開かなくてもおそらく同じ結果になっていただろう。ただ、それがその日ではなく、次の日、あるいは次の週、次の月になっていたかもしれないが…。
外国人であり支援する立場である自分と昔ながらに生きてきた現地の人たち。我々はどのような距離で接していけばよいのか…。この疑問は現在も継続中、いや、拡大中だ。
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“教育”への支援
(2006年3月)

 知り合いの医師から聞いた話では、東ティモールの女性が一生の間に生む子どもの数は最新のデータでは7.8人だそうだ。
世界銀行のホームページを見ると2004年の統計では7.6人だからその数は増えていることになる。東ティモールの人口は約100万人だが、このままでいくと30年後ぐらいに人口は2倍の200万人になるという。この国に必要な支援について考えるとき、おそらくほとんどの人が“教育”への支援が必要だと考えるだろう。それほど、学校、教室、教師、教材など教育に関するあらゆるものが不足している状況で、これから先どんどん増えていく子どもの数に対応していけるのか…もちろん、将来的には可能になるだろうという希望をもってはいるが、たちまち今いる子供たち、ここ何年かの間に学校に通う年齢になる子供たちにとっては、かなり厳しい状況であると言わざるを得ない。
子どもたちが学校で習う最も重要な勉強のひとつが言葉だ。東ティモールの公用語はテトゥン語とポルトガル語だ。とりあえず日々の生活は普段人々が使っているテトゥン語さえあれば何とかなるようにも思えるが(ただし、テトゥン語を生活言語として使用しているのは首都のディリと一部の地域のみで、ほかの地域ではそれぞれ独自の言語を使用している。彼らがディリに出てきて生活するためにはテトゥン語も習わなければならない…)、テトゥン語で会話をする際にも、外来語として入ってくる新しい単語はすべてポルトガル語なので、ポルトガル語の勉強は非常に大切だ。しかし、当たり前だが、習わないと話せるようにはならない。私たちのようにみんながすでに話せるようになっている国語を習うのとはわけが違う。今はまだ学校の先生たちですらほとんが満足にポルトガル語を使用することができないというのが現状だが、ポルトガル語の必要性は今後高まっていき、進学するにも就職するにも不可欠になっていくだろう。もちろん、言葉だけではなく計算などの基礎科目、また社会性や道徳性を身に付けるためにも子どもたちにとって学校は非常に重要な場所だ。ところが、東ティモールのすべての子ども達が、この基礎的な教育を受ける機会に恵まれているわけではない。政府が子供たちのために準備可能な学校の数は限られているから、学校に行けない子供たちが当然存在する。そして、おそらくこれからも増え続けていく。
 以前にも少し紹介したように、東ティモールYMCAはサンミゲルという小学校(幼稚園も併設)を最初の活動場所として選び、いろいろなプログラムを展開し非常によい協力関係にある。このコミュニティーを、そして学校を選んだ最大の理由は、自分たちの力で学校を始め、何とかして続けていこう、という人々の努力」を発見したからだ。この国の事情では、政府を当てにしているだけでは、これから増えていく子どもたちに教育の機会が十分に訪れるとは考えられない。しかし、だからといって、この国の教育全体をどうこうすることも難しい。この状況を自分たちの問題として認識し、「自分たちで学校を一から作っていく」という方法で、問題の解決に努力しているこのコミュニティーの人々に私は感動し、この地域の子どもたちのために、その努力に一緒に参加
したいと思った。
この子達が将来の東ティモールを、そして東ティモールYMCAを担っていく日を夢見て。

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結婚したいタイミングの裏側
(2006年2月)

 先日、20才前後の青年たちとテトゥン語(一年も東ティモールに住んでいるのに、未だにたどたどしい)で話をしていた。会話が、恋人がいるとかいないとかという話題になったので、彼女がいるという男の子A君に、その彼女と結婚するつもりなのか、とからかいながら聞いてみた。目を輝かせながら、あるいは恥ずかしがりながら「うん」と答える彼を想像していたのだが、彼は複雑な表情で、う〜んと唸りながら「まだ、わからない。」と答えた。どうやらA君は彼女との結婚について、今はあまり積極的ではないらしい。A君が「彼女との結婚」に積極的でないのか、あるいは「結婚そのもの」に積極的でないのか、それを知りたいと思ったのだが、残念なことに今の私のテトゥン語でそれを質問することはとても難しく思われたのであきらめて、他の青年たちにも同じように、恋人と結婚するつもりなのかを聞いてみたのだが、あいにくと、その場にいた十数人の男女は、そのA君を除いて全員恋人がいなかった…。
  A君以外に恋人がいないことを確認して会話を終えるのもなんなので、次に、じゃぁ何歳ぐらいで結婚したいかと質問をしてみたら、27〜29歳ぐらいという日本や韓国の平均的な年齢と大差ない答えが返ってきた。やはりディリは小さいとはいえ首都である都市なので、若い人たちの考え方も他の国の若者と似ているのかなぁ、などと考えながら、その理由を尋ねてみると、「まず、仕事を見つけることが先だ。」とみんなが口をそろえて言うので、ああっなるほど、と思った。
  つまり仕事を見つけて働き、お金をためてからでないと結婚できない、ということかと聞くと、A君を含めてみんなでうなずいている。ここにいる青年たちは全員が高校を卒業した後、就職することができずにいるのだ。失業率については60%とか80%とかいわれているが、特に若者たちの失業率は高いようだ。
  収入もないのに結婚しても住む家もないし、食べていけないから、というのも一つの理由ではあるだろうが、彼らが結婚よりも仕事が先だというのには、もう一つ別の理由がある。もちろんどこの国でもそうだろうが、東ティモールでもやはり結婚そのものにお金がかかるのだ。
  結婚の際には親戚・友人・知人たちが集まって盛大なお祝いが開かれる。そのお祝いのために数千ドルのお金が使われる。また、地方によっては結婚の際に男性側の家から女性側の家に、1頭300〜400ドルはする水牛を何頭も贈らなくてはならないのだ。
  家族の絆が強いこの国では、家族全員で結婚の準備をするのだが、一般的な公務員の給料が80〜100ドル程度、国民の80%は安定した収入のない農民、というこの国でそれだけのお金を蓄えている家庭はほとんどないだろう。当然、借金ということになるのだが、それでもそれなしには結婚が成立しないのだから仕方がない。
  そんな事情から、この青年たちも結婚よりも仕事が先だといっているのである。しかし、この就職の難しさが当面大きく改善されることは無いように思える。特にA君たちの世代は、インドネシア時代に職場で働いて技能を学ぶ機会も無かったし、これからの子供たちのように公用語であるポルトガル語を学ぶ機会も無かった、最も難しい世代なのだ。
  なんてことは無い会話がきっかけとなって、結婚したい年齢は日本や韓国と大差ないのに、その理由や背景にある社会状況はこんなにも違うものなのかと、この国と人々のおかれている状況について改めて考えさせられた。

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平和について考える
(2006年1月)

12月20日から24日にかけて韓国YMCAが主催する「Asia Youth Peace Camp」に参加するため、東ティモールYMCAの青年メンバー3名とともに冬の韓国を訪れた。出発前にみんなが最も心配したのは、やはり寒さだ。寒さ対策を十分に、といっても赤道のすぐ南に位置するこの国の青年たちは、その寒さをどこまで事前に想像できていただろうか。
19日の朝、韓国上空から見た一面の雪景色に圧倒されながらも、私たちは無事に仁川国際空港に到着し、韓国に入国した。ありがたいことに韓国YMCAでは彼らのために冬用の上着、手袋、帽子などを準備してくれており、うかつにもサンダル履きで空港から外に出た私以外は、たいして寒さを感じることなく、駐車場で車に乗り込んだ。その日は韓国YMCA連盟のスタッフたちと一緒に食事をした後ホテルに泊まり、翌日からいよいよ4泊5日のキャンプが始まった。キャンプが行われた大学のキャンパス内は、室内は暖かいものの、歩いて外を移動するときなど、やはり本格的な冬の寒さにみんな苦労していたようだ。それでも、「雪を3回触った」などと自慢していたから、彼らなりに冬の韓国を楽しんでいたのだろう。
もうひとつ心配していたのは、言葉だ。50名ほどの参加者のうちほとんどは韓国の、それから、一部は北朝鮮やモンゴルの出身で今は韓国で暮らしている青少年たちであった。当然、キャンプの進行を含めて使用される言語は韓国語が中心である。東ティモールのメンバーたちが振り分けられたグループには、英語を流暢に話す人も何人かいたが、いかんせん、東ティモールの3名も、ひとりを除いてはそれほど英会話ができるわけではないので、コミュニケーションには相当苦労していたようだ。
キャンプの主題は、「平和」である。住んでいる環境や、生きてきた経験などが違う以上、当然に私の考える平和とあなたの考える平和も違うはずである。自分にとっての平和とは何か、ということをじっくりと考え、それを社会の中で実践していくためにどうやって人々と分かち合うことができるのか、ということを考える、あるいは学ぶためのキャンプであったが、やはり、コミュニケーションに問題があると、そういったキャンプの目的を主催する人たちや他の参加者たちと十分に分かち合うことは不可能であろう。
ここで私は今回のキャンプには言葉の問題があったなどといいたいのではない。むしろ、各国の参加者間にこのようなコミュニケーションの難しさが厳然として存在するということを、参加者自身が身を持って経験できる機会となったことを喜んでいる。そして、彼らがこの難しさ(ここでは言葉について述べているが、もちろん、それだけではない)をどのようにして乗り越えていくことができるのかについて考え、学び、そしてお互いをより理解できるようになる日が来ることを信じている。この世の中の平和を乱す多くの葛藤や争いは、当事者間のコミュニケーションの不足や誤解が原因であると思うからだ。
「アジアはひとつ」という言葉をたまに聞くが、私はこれを幻想だと思っている。私の見たアジアは人々の考え方や行動様式、社会の仕組み、そして毎日食べているものまで、すべてがバラバラである。それでも平和を実現するためには、そのバラバラであるアジアが「ともに生きる」ために努力することが必要であり、そのために働くことが私の使命だと思っている。
今回の韓国滞在は非常にあわただしいもので、韓国からの参加者たちと十分にこのような話をする機会がなかったのが残念だったが、今も毎日のように顔をあわせている東ティモールの参加者やその他のメンバーたちとはこれからも「平和」についていっしょに考えていきたい。

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東ティモールの娯楽について
(2005年12月)

 今回は東ティモールの人たちが楽しんでいる娯楽をいくつか紹介したい。
最も基本的な娯楽としてはスポーツがあげられる。スポーツはバレーやバスケなどの球技を中心としてかなり盛んだが、中でも一番の人気はやはりサッカーだ。ちょっとした空間があればみんな裸足でボールを蹴って遊んでいる。また遊びとしてのサッカーだけじゃなく競技としても盛んに行われており、週末になるとちょっと整備されたサッカー場ではユニフォームやサッカーシューズに身を固めた選手たちが、審判と観客の見守る中、組織的なプレーを展開しながら試合をしていたりする。興味深いのは、植民地から独立したことを誇りに思っている東ティモールの人たちが、サッカーに関しては熱烈なポルトガルファンであることだ。本当かどうか知らないが、彼らの話によるとポルトガルはW杯などの国際大会では、必ず東ティモールのファンに捧げるための1ゴールを決めてくれるそうだ。サッカーに関しては完全にポルトガルと同化しているといっても良い。だから、2002年のW杯でポルトガルを破った韓国に対する感情がどんなものか、ここであえて言う必要もないだろう。ちなみにサッカーに関して2番目に人気のある国はブラジルである。
球技以外のスポーツとしては空手、テコンドー、合気道なども盛んだが、これらを学ぶ若者同士の抗争などで時折死者なども出ており、けんかのための道具ではなく武術としてこれらを教えていける指導者が必要とされている。
また、これもやはりポルトガル文化の影響なのか、音楽も非常に明るくリズミカルなものを好む。結婚式などのパーティーでは、一晩中音楽をかけながら踊っているのだが、足の使い方、踊りながら手を腰に回すしぐさなどは、完全にラテンのスタイルだ。ギターの演奏なども、どこでどうやって習うのだか知らないが、上手な人が多い。初めて聴いた歌でも、2・3回歌っていると、自然にハモってたりする。
テレビの放送局は1つしかないが、ディリの中心部では映画のビデオCDやDVDが売られており、インドネシアやインドの映画に結構人気があるようだ。言葉がそのまま理解できるインドネシアの映画に人気があるのは当然だが、登場人物が初めから終わりまで歌って踊っているだけのようにも見えるインドの映画もティモール人の感性によくあっているようだ。
ちょっと知的な娯楽としてはチェスも人気がある。今にも崩れそうな建物の前でティモール人のおじさん二人がチェス盤をはさんで座り込んでいる光景は、初めかなり不思議に見えた。広場の木陰などでは数人のおじさんが丸くなって座り、トランプに興じている光景も良く見られる。まぁ、これは知的な娯楽というか、賭け事なのだが・・・。
賭け事の中で最も人気があるのは闘鶏だ。田舎町へ行っても大体どこへでも闘鶏場があり、そのまわりには大事そうに鶏を抱えたおじさんたちがうろうろしている。
なんだかおじさんの娯楽ばかり紹介しているようだが、おばさんの娯楽はないのか・・・というと、そんなことはない。おばさんの最高で最強の娯楽は、お金もかからず二人以上集まればいつでもどこででもできる、「おしゃべり」である。

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YMCAコーヒー事業始動!
(2005年11月)

前回に続きコーヒーの話である。今回は東ティモールYMCAのコーヒー事業に関して紹介たい。
まず、YMCAがコーヒー事業を展開しているサメという地域について簡単に紹介する。味の良いアラビカ種というコーヒーが生育するのは標高1000メートル以上の地域に限られる。サメの標高はそれほど高くは無いが、背後にそびえるMt.Cablaque(カブラキ山)の下にはアラビカ種のコーヒー農園が広がっており良質のコーヒー豆がたくさんとれる。にもかかわらず、首都ディリとの流通経路が十分に発達していないサメでは少量をコーヒー組合に売るしかない状況であった。東ティモールではすでに日本から2つのNGOがコーヒー事業を展開しながら農業技術支援、コミュニティー支援などを行っているが、サメではこういったNGOの活動が活発に行われていなかったこともあり、私はYMCAがコーヒー事業を展開していく地域としてサメを選んだ。
YMCAはここでレッドチェリーを1キロ25セントで買い取った。これは今年のコーヒー組合よりも数セント高い価格である。そのかわりにYMCAは、質の悪い豆がひどく混じっているものは一切買い取らないという方針を明確にし、買取りの際には必ず袋を開けて豆の状態をチェックした。
農民から買い取ったレッドチェリーはサメの街に運ばれ、YMCAが組織した青年グループの手により加工された。実から種を取り出すのには手回しの機械を使う。エンジンやモーターなどを利用した機械もあり、みんなもそれを使いたがるが、それらは維持費や燃料代がかかるので不適切であるという判断で手回しの機械のみを使用した。彼らの自立を促すために重要なことは持続可能な方法で作業できるように環境を整えていくことである。いくら効率がよく楽でも、自分たちで維持できない方法を導入することではない。
取り出した種は水につけた後、手作業できれいに洗われるのだが、種はなかなか取れにくい透明な粘着質で覆われているために、この作業にも非常に手間がかかる。その後、天日で1週間から10日間乾燥させてようやくサメでの加工が終わる。この乾燥した状態をパーチメントと呼ぶが、十分に乾燥が終わった時点でのコーヒー豆の重量は約5分の1になる。我々が農民から買い取った約75トンのレッドチェリーは約15トンのパーチメントとなった。
その後、パーチメントはディリに運ばれ、専門の脱穀施設で最終的な加工を行った。脱穀したばかりのコーヒー豆はエメラルドのような緑色をしており、その名もグリーンビーンズと呼ばれている。最終加工を終えた後、10トンになったグリーンビーンズはコンテナに詰められてディリ港を出発し、9月1日、韓国に向けて旅立った。
最初にサメでレッドチェリーを買い取ったのが6月23日であったから、コンテナが東ティモールを出るまで約10週間かかったことになる。その間、サメのコーヒーを韓国に送るため、実に多くの人たちが東ティモールYMCAとともに汗を流して働いてきた。
今度は韓国で、これまた実に多くの人たちがこの東ティモールコーヒーをたくさんの人たちに知ってもらい、また、このコーヒーを通して東ティモールという国、そしてそこに暮らす人々に関心をもってもらい、東ティモールYMCA建設のための支援をしてもらえるよう、汗を流して働いている。
東ティモールから遠く数千キロ離れた韓国までコーヒーは海を渡っていった。貿易の仕事など初めて経験する私は、このサメのコーヒーを韓国YMCAへ輸出する仕事を通して、二つの国でYMCA運動に携わる我々が、すべての人が平和に幸せに暮らせる社会を創ることを目指すというYMCAの理念によって、そして、今という時代を共に生きているお互いへの愛によって結びついているのだ、ということを実感している。私の目の前にあるこのサメのコーヒーはその証であると思う。
今後、このコーヒーがアジア太平洋地域、さらに世界のYMCAへと広がっていく日を夢見ながら、今日も明日も東ティモールの人たちとYMCA建設のために働く。もちろん、一日の始まりは、一杯のコーヒーから。
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東ティーモールのコーヒー農業スタイル
(2005年10月)

東ティモールはコーヒーの生産国として知られている。コーヒーはアフリカのエチオピアが原産といわれ、西洋の植民地経営とともに他の地域にも広まった。いまや熱帯地方にあるかなりの国々で生産されているが、もっぱら先進国で消費されている。「南」で作った作物を「北」で消費する、という典型的な例だ。ここ東ティモールにはポルトガルによる植民地経営の一環としてコーヒー農業がもたらされた。ポルトガルが残した唯一といっていい経済価値のある遺産だ。
山の斜面に植えられたコーヒーの木は、高さ2〜3メートルにもなり、コーヒー農家の人たちは、木になった赤く熟れた実(レッドチェリーと呼ぶ)を一つ一つ手で摘み取っていく。1日じゅう山を歩き回るその仕事はかなりの重労働だ。
摘み取られたコーヒー豆は自宅や集落の作業場に運ばれ、彼らの手で加工されることもあるが、この国では多くの人たちがそのままの状態でアメリカの資本で作られたコーヒー組合に豆を売る。実から取り出した種を洗って乾燥させる加工作業は多くの手間と時間がかかるため、そのまま売ったほうが断然に楽だからだ(ちなみに、我々がコーヒー豆と呼んでいるものは実ではなく、種である)。コーヒー組合によるレッドチェリーの買い取り価格は、もちろん年によって変動はあるが、1キロ当たり15〜22セントぐらいになる。自分たちで加工したものを売ることもできるが、手間と時間をかけた分だけの収入増にはならないので、レッドチェリーのまま売ったほうが得だという仕組みになっている。
また、コーヒー組合は農家から運ばれてくるコーヒー豆の質にあまり気を使わない。本来は適度に実った赤い実だけを使用することで品質のよいコーヒーができるのだが、まだ熟していない緑の実や、熟しすぎた赤黒い実、また虫食いや病気の実が混じっていても組合では豆を買い取る。彼らは大規模な施設を利用した加工作業でそれらを選別するので農民には豆を摘み取り自分たちに売る以上の作業を求めない。重さのみで買い取り価格が決まるので農民の側も当然に手当たり次第に実を摘み取ってコーヒー組合に売ることになる。
このようにして、6〜8月にかけての時期に山に入りコーヒー豆を摘み取って、それを売り、後は翌年のコーヒー豆が自然になるのを待つだけ、という、非常に受身の姿勢の強い東ティモールのコーヒー農業のスタイルはできあがっている。コーヒー組合の経営方針とあいまって、それはますます受身に、つまり依存的になっているように感じる。
もともとコーヒーは1年を通して手間のかかる作物である。強すぎる直射日光の下ではコーヒーの実は赤くならないためにコーヒー農場にはコーヒーの木に混じってシェードツリーと呼ばれる日陰を作るための高木が植えられており昼間でも薄暗い。コーヒー農家は下草を刈ったり古くなったコーヒーの木を切ったりするだけではなく、このシェードツリーも管理してやらなくてはならない。ポルトガル時代にはポルトガル人によって(もちろん、現地の人たちを使って)木を植え替えたり切ったりしてそれなりに管理されていたらしいが、今はそれほどしっかりとした管理のされている農園は少ないようで、病虫害などだけでなく、今後はコーヒーやシェードツリーの老木化が深刻な問題になっていくと見られている。
こうした現状を改善しようと東ティモール政府は海外からのNGOと協力してより自立したコーヒー農業のために働いている。YMCAでもこの夏、韓国YMCAからの要請を受けてサメという地域で農民や青年たちと一緒にコーヒーの収穫と加工を行い、約10トンのコーヒー豆を韓国に送った。
この東ティモールコーヒーを使用してのキャンペーンに関しては韓国YMCAからの情報に期待するとして、次回の日記では東ティモールYMCAのコーヒー事業に関してもう少し紹介しようと思う。
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挨拶の効用(2005年9月)

東ティモールの人たちは挨拶をとてもよくする。歩いているときでも、車に乗っているときでも、大人でも子供でも、目が合えばとにかく挨拶をする。知り合いの場合は握手をしたり、握手の後に右手を自分の胸に当てる。右手を胸に当てるというのはインドネシアの人たちもしているから、このあたりの地域に共通した習慣なのだろう。女性同士の場合や男女間では左右の頬を交互にくっつけながら唇で音を出す、というキスによる挨拶の仕方も一般的だが、これは男性同士では決して行われないのが面白い。この挨拶は国連などで働くヨーロッパ人たちも頻繁に行っているから、もしかするとヨーロッパからポルトガルによってもたらされた習慣なのかもしれない。
知らない人同士の場合でも目が合ったときには挨拶をする。この挨拶の方法がちょっと変わっていて非常に面白い。挨拶をするときに顔を少し上に上げるのだ。われわれの感覚では顔を軽く下げる、というのが一般的だが、彼らは上に上げる。アジアのいろいろな国を訪れたが、こういった動きを見たのは初めてだったので、初めはなかなか真似ができなかった。聞くところによると、太平洋州の国々でもこうした挨拶が行われているのだそうだ。アジアといっても一言では語れないほど広く、そこには実に多種多様な習慣や伝統が入り混じっているが、挨拶ひとつだけ見ても、このアジアの端っこに位置する東ティモールの習慣に、いろいろな要素が織り交ざっているのを実感できる。
この、顔を上に上げるという動作、最初のうちは首の力だけで顔を上げようとしていたのだが、どうも不自然で、現地の人たちと同じようにならなかった。しばらく彼らの動きを観察した結果、彼らが次のような手順で動作をしているのを発見した。まず両方の眉毛を上に吊り上げ、その眉毛が顔を上に持ち上げる感じで顔全体が上を向き、それと同時に笑顔をつくる、という動きになる。それと同時に片手を手のひらを見せるように胸ぐらいの高さまで上げると、完璧だ。
そんな挨拶の方法などは、どうでもいいことだと思われるかもしれないが、これができるとできないとでは、この国で生きていくうえで大きな違いがある。
例えば・・・知らない町に入っていくと、住民は「誰だこいつは・・・」という表情で私をいぶかしげに見つめる。若干の緊張感が彼らと私の間に流れる。そこで、私がこの顔を上げる挨拶をしながら片手を軽く挙げると、彼らも同じ挨拶を返しながら人懐っこい笑顔を返してくる。一気にお互いの間に流れていた緊張感が消えていく。この国で長く暮らしているある外国人によると、我々のようなよそ者にとって、この挨拶は一種の自己防衛手段として機能するそうだ。
仕事の関係上、首都であるディリから南に車で片道5時間ほどのところにあるサメという地域をよく訪れる。5時間におよぶ移動時間の間中、すれ違う車や道沿いに暮らす人たちとこの挨拶を交わし続けているうちに、だんだんとこの挨拶が身についていき、条件反射のように現れるようになる。しまいには、道端に寝転んでこちらを見ている犬と目が合ったときにまでこの挨拶がしている自分に驚くこともこれまで何度かあった。
外国で長く暮らしているうちに身についた現地への適応能力。。ちょっと高すぎるかも。。
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コミュニティーが支える小学校(2005年8月)

7月26日から8月5日までの日程で韓国、香港そして日本からの参加者と地元の青年たちとがいっしょにInternational YMCA Youth Peace Campを行った。そのキャンプに関する報告は別の機会にするとして、今日はこのキャンプの舞台となった小さな学校をみなさんに紹介したい。
学校の名前は、St. Michael School。東ティモールの首都、ディリ市内にあり、中心部から西側に車で20分ほどいったところにある小さな集落で3年前から運営されている。もともとはオーストラリア軍がディリに駐留していた時期に、彼らによって作られたコミュニティーセンターを地域の人たちが幼稚園として利用し始め、幼稚園を卒業した子供たちのために、昨年、小学校1年生のための教室をつくった。敷地内には以前に駐屯していた自衛隊がつくったバスケットコートや、貨物用のコンテナを利用して作った即席のコンピューター教室などもある。
この学校の運営の中心になっているのは、このTerra Santa(聖なる土地)という名の集落でチーフをしているMr.Armindoという人だ。運営の中心になっているというよりは、彼一人で運営しているといった方が適切かもしれない。彼は司法省の職員でありながら集落長という無給の仕事に非常に熱心に取り組んでいて、私がこの国で出会ったティモール人の中で、もっとも仕事への情熱にあふれた人だ。あまりにも学校に熱心であるために、職場の上司にはかなり嫌われているという話だ。彼は出勤前、昼休み、仕事の後、そして週末と、職場で過ごす時間と家で寝る時間以外はほとんどこの学校ですごしており、コンピューター教室では、彼が直接教えてもいる。また、集落長として、政府や外国機関への支援の要請から住民同士のケンカの仲裁などにもいつも忙しく対応しているため、奥さんにも夜遅く家に帰るたびに、「学校で寝るんじゃないの?」と言われているというから、あまりあくせくと働かない人たちの多い東ティモールにおいて、本当に希少な人である。
ところで、現在のところ、学校には2年生から上の生徒のための教室はない。現在の1年生がこの秋から2年生として勉強をするための教室を作るため、集落長だけでなく、学校の先生、保護者たちまでが一生懸命に資金作りのためにかけ回っている。今回は外部に資金支援を要請するのではなく、自分たちがスポンサーを募ってテレビやバイクなどを集め、それを景品にした宝くじを売ってその収益金で教室を建てるそうだ。
東ティモールYMCAもこの集落に事務所を構えている。私がこの場所を選んだのも、この小さな学校を集落長を中心としたコミュニティーの人たちが支えている姿を見て、ここで彼らといっしょにコミュニティー開発をしていけたら、と思ったからである。今回のキャンプもそんなYMCAの思いと地域の人たちを結びつけるために非常に役に立ったと思う。今後もいろいろな形でこのコミュニティーと関わっていきたいと思う。
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言語切り替えスイッチについて(2005年6月)

東ティモールの言語事情はかなり複雑だ。現在、東ティモール政府が採用している公用語としてはポルトガル語とテトゥン語がある。ポルトガル語は、政府や役所などの公的機関において使用されているし、テトゥン語はディリを中心とする地域の人たちの日常生活用の言語として広範囲に通用している。ところが、地方に行けば、テトゥン語とは違う現地語で生活している人々も多く、全国的に通用する言語というのは、今の20代以上の世代が学校教育を受けていた時代に使用されていたインドネシア語であると言えるかもしれない。また、UNやNGOなどの国際機関で仕事をしている人たち、オーストラリアなどでの生活を経て帰国してきた人たちの中にはかなり自由に英語を話す人も多い。
このように、大多数の国民が少なくとも2〜3の言語を使用できるわけだが、これは日本や韓国のように、一つの言語を母語として持ち、学校教育の中でかなりの時間と努力を投資した結果、やっとのこと頭の中で翻訳をしながら片言の英語がしゃべれるようになる国の感覚から考えると驚くべきことである。彼らはかなり若い段階から、例えば「テトゥン語⇔インドネシア語⇔英語」といった複数の端子を持つ、いわば「言語切り替えスイッチ」を脳の中に獲得しているのである。だから、会話の途中で使用する言語が急に切り替わったりしてもたいした混乱もなく会話は進行する。例えば、学生同士がテトゥン語で普通の日常会話をしている途中、話題が数学の授業の内容に切り替わったとたん、彼らの言語も授業で使用してきたインドネシア語に切り変わったりする。また、英語で話される講義に、ティモール人とインドネシア人の通訳が交代でついて、ある時は英語をテトゥン語へ、ある時はインドネシア語へというふうに通訳を交互にしても、聴衆は何の問題もなくうなずきながら話を聞いている。
もちろん、この「切り替えスイッチ」は、植民地支配を受け続けてきた歴史や、それぞれの言語を普及させようとする集団間の勢力争いといった社会的要因を背景とする東ティモールの複雑な言語事情が生み出したものであることを考えると複雑な心境にはなるが、英語を初めとした各種の外国語をマスターしたい、あるいは、自分の子供をバイリンガルに育てたい、と切望している人々から見ると、少しうらやましい状況であるといえるかもしれない。
しかし、私はこういった東ティモール人の複雑な言語生活を考えるとき、この「切り替えスイッチ」がもつ悪影響、つまり、人々が広く浅い言語生活しか送れないのではないか、という疑問というか、心配も同時に感じるのである。この辺りの疑問に関しては、今後も観察を続けていきたいと考えている。
ところで、実は、私にも「日本語⇔韓国語⇔英語」という切り替えスイッチが備わっている。数ヵ月後には、それに「テトゥン語」も加わることになるだろう、と予測(期待?)している。もしかすると、東ティモールでの生活やティモール人との交流は、結構自分にあっているかもしれない、と、この国に来て以来、往々にして感じているのも、この「言語切り替えスイッチ」を持っている、という共通点に起因しているのかもしれない。
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この地における宗教について(2005年5月

 この国はカトリックの国だ。基本的にこの国における統計資料というのは、非常に入手が困難で信頼度もそれほど高いとはいえないが、人口の95%がカトリック教徒だという数字はかなり信憑性があると思う。どんな小さな村へ行っても、どんな山奥へ行っても、カトリック教会は必ずあって、毎週日曜日には多くの人が礼拝に参加している。数百年にわたってポルトガルの植民地支配を受けてきたのだから、当然その影響だろう、と単純に考えていたのだが、どうやらそうではないらしい。この国で現在のようにカトリック信者の数が圧倒的となったのはインドネシア時代からだという人たちも多い。その背景にはインドネシアによる植民支配に対抗するための精神的な支えとして、教会が人々からの支持を受けていたという歴史があったという。
 また、インドネシアでは、すべての国民は必ず何かしらの宗教に属することになっている。インドネシア時代の東ティモールでカトリック信者が増えたのもこの制度によるもので、ポルトガル時代のカトリック信者の割合は20数%に過ぎなかった、という話もある。独立後の東ティモールでもインドネシアと同様のシステムをとっている。カトリックの家に生まれた子どもは、当然カトリック信者として教会に登録される。この国には戸籍制度がない。教会や寺院に登録された人数の合計がこの国の人口だ。結婚も教会などに届け出て登録することで正式に成り立つ。出生や結婚などというものは役所が管理するのが当たり前だと我々は思っているが、ここでは戸籍からして宗教なくして考えられないのだ。
 日本から来ているあるNGOの方によると、彼らにとって宗教とは空気のようなものだそうだ。つまり、当たり前に存在しているものなのである。この意見に私は大いに同感である。聖職者をはじめとする教会関係者などを除くと、大部分の人にとっては宗教の持つ意義や必要性を考えたり悩んだりすることなどは、あまり重要ではないようだ。空気のない空間ではどんな人間も生きていけないのと同様、彼らにとって、人生においての宗教、つまり大部分の人々にとってのキリスト教は、人生の中で必要不可欠な存在なのだ。日曜日になると必ず教会に行くのも、まるで朝になると太陽が昇り夜になると沈むのと同じぐらい、当たり前のことなのかもしれない。
したがって、この国の人たちにとって無宗教などというものは到底理解不能な概念となる。彼らに日本の宗教事情を説明してみても、「???」といった反応しか返ってこない。空気なしで生きている人間など想像もできないのと同じだ。
 ここで、ひとつ気がついてもらいたいことがある。それは、「逆もまた真である」ということである。彼らが日本の宗教事情を説明や統計だけで理解できないのと同様、我々もまたこの国の宗教事情を「95%がカトリック」という情報だけで理解することは到底できない、ということである。だから、この国の宗教に関する社会事情や歴史的背景を踏まえて95%という数字を見ないと、この国の持つ本当の姿を見誤る。つまり、この文章の始めに書いたように、統計値としての「95%」はおそらく正しい、しかし、日本人にとっての宗教と、この国の人たちのとっての宗教とは、少し、いや、もしかすると非常に違うものなのかもしれない、という視点でこの数字を眺めなければならないと思う。

 このことを、この土地にもともとあったアニミズム信仰とキリスト教との関係を例に、少し考えてみたい。

 キリスト教伝来以前から各地域にあったアニミズム信仰は、数百年たった今もキリスト教とまじわり融合してしまうこともなければ、すたれて消滅することもなく現代まで脈々と継承されているそうだ。現地の言葉であるテトゥン語で"Lulik(ルリック)"という単語は、「聖なるもの」という意味だが、各家庭や親戚の間でのものから共同体の単位までさまざまな種類のルリックがある。そこに共通しているのは、「聖なるもの」という意識の存在である。ただ単に規範や掟として、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、というのではなく(これをテトゥン語では「タラバンド(=慣習法)」といい、ルリックとは別の概念として存在している)、神聖なものとして認識し、それを守っているのだそうだ。
 もともと、このようにして「ルリック」を守ってきた社会に、450年ほど前にポルトガル人によってキリスト教がもたらされたわけだが、この国の人たちは神や神に仕える聖職者に対してもルリックと呼びかける。つまり、彼らにとってキリスト教とは植民支配者にってもたらされた外来の、新しい、そして巨大なルリックだったのではないだろうか。
 そうすると、彼らにとっては従来からのルリックと、この新しいルリックとは同価値であるといえるのではないだろうか。少なくとも一般の人たちにはどちらかが上位である、という意識はないように見える。あれもルリック、これもルリック、ルリックはルリックであるがゆえに守られなければならない、という感じである。
ただ、このポルトガル人によってもたらされたルリックは、"教会"という体系を持っており、また、始めに書いたようなこの国独特の歴史背景や社会事情などもあることから、「あなたの宗教は?」と聞かれると、95%の人々が「カトリック」と答え、日曜日のミサや一年を通して数多く行われる教会の行事に熱心に参加するのである。
 私は決して、だから彼らの信仰は篤くないとか、未発達である、などと言いたいわけではない。彼らは彼らで、幸せに生きるための心のよりどころとして、非常に熱心にキリスト教を信仰しているのだ。
ただ、私たちの感覚だけで見ていたのでは、この国の本当の姿は見えてこないし、私たちがこの国でどういった活動をしていくべきなのかも見えてこない、ということを、この国を理解する上で最も重要な鍵のひとつである宗教を通して考えてみた。(もとより、私は宗教学や文化人類学、民俗学というものを学んだこともなければ、10年20年とこの国で暮らしているわけでもない。3ヶ月足らずの間、この国で暮らしながら、この国の人々や社会を観察してきただけの新参の素人である。しかし、だからこそ、今しか見えないもの、私にしか感じられないものもあるのではないかとも思っている。)

 この国で暮らしていると、テトゥン語とインドネシア語、時には英語やポルトガル語まで、複数の言語を自在に使い分けるティモール人を見て、その切り替えの早さに驚くことが多々ある。私は彼らの頭の中には、かなり発達した言語切り替えスイッチが形成されており、彼らは無意識のうちにそのスイッチを活用しているとにらんでいるのだが(この言語切り替えスイッチも、今後の観察・研究対象である)、今回、この日記を書いていて、もしかすると、この言語切り替えスイッチだけでなく、宗教切り替えスイッチも持っているのだろうか、などと不謹慎な想像をしてみたりもした。
 この宗教の使い分けは、一見、神社に初詣をし、教会で結婚式を挙げ、死んだら仏壇に祀られるという、典型的な日本人の姿と重なるようにも思えるが、果たしてどうだろう・・・    (石橋英樹 東ティモール設立協力スタッフ)
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番外編 「Building Small Christian Community」研修に参加して感じたこと

 先日、ディリ市内において「Building Small Christian Community」と題された研修が開かれ、私も4日間の研修のほぼ全日程に同席させてもらった。
研修はインドのバンガロールから来た神父を中心としたインドネシア人二人との合同ファシリテーター陣と、現地のカトリック教会関係者たちにより進行され、100名弱の参加者は東ティモールの西半分に当たるディリ教区の各小教区からディリに集まり、朝から夕方までの長い日程を精力的にこなしていた。
言語事情の複雑な東ティモールらしく、インド人の神父が話す英語をあるときは東ティモール人がテトゥン語に、あるときはインドネシア人がインドネシア語に通訳していたり、インドネシア人が直接インドネシア語で進行をしていたりした。シスターたちの中には外国から来ている人たちも数人いたが、テトゥン語やインドネシア語を十分に解せない人たちは、研修内容の細かい部分までを理解することがかなり難しかったと思われる。私ももちろん、そのうちの一人だ。したがって、ここでは、この研修を第三者的な立場で観察した結果、私なりに感じたことがらを少し紹介したいと思う。
 この研修に参加したのは、先にも述べたように総勢100名弱の教会関係者である。といっても、教会を実際に担当している神父は少数で、シスターなどの教会で働く人たちが中心であった。いかにして教会指導者が、その小教区に、人々の顔が見える程度の規模でのクリスチャンコミュニティーを建設していくかという研修の目的から考えると、より一般の信者たちのと距離が近いと思われる彼らが中心となって研修に参加しているということはよいことであると思われる。現場で人々に接する機会の多い彼らは、これからの教会にとってこういう運動が必要であることを肌で感じているようだ。逆に言うと、彼らが人々の声をもっとくみ上げることができるようなクリスチャン活動を地域において進めていけば、いずれ教会の権威に近い人たちにもその声が届くようになるかもしれない、という期待感をこの国ではじめて行われたこの種の研修に参加した人びとに対して抱くのは、まだ時期尚早であろうか。
 この国はカトリック信者が95%を占めると言われている。実際、この国の政治や人々の生活において、カトリック教会のもつ影響力はかなり大きいように見える。しかし、すべての人は何かの宗教を持たなくてはならないという社会制度や、地方においては古くからの土着的な宗教儀式がカトリックとは別に脈々と受け継がれていることなどを考えると、少なくとも日本人が持つ感覚で95%という数字をみることは、この国の姿を見誤ることにつながる。私は、95%という数字がどれほど現実的なのか、あるいはこの先もこの数字が持続するのかについては、もう少しこの国を観察してみないと判断できないと思う。
ただ、農村での伝統的な生活から抜け出そうと、技術も教育も十分に持たないまま、実に多くの若者が職を求めてディリに出て、その多くが、職を得ることができずにいるという現実を考えるまでもなく、独立以降、世界中から入ってくるようになった膨大な量の情報は、先進諸国あるいはアジア諸国のライフスタイルをダイレクトに伝え、人々はより快適で文明的な生活(つまり、より物質主義的でより拝金主義的な生活)を求めるようになった現在、人々の心が教会や宗教から次第に離れてきており、またこれからも離れていくであろうということは、簡単に想像できる。
 そういった状況の中で、現状のままの教会では人々の心の変化に、社会の変化に十分に対応することができないという意識が、今回の参加者の間にどれほどあるのか、言葉によるコミュニケーションが十分にできない私には、それを知ることは難しいが、少なくともこの4日間を通して参加者はこれらのことに関して考えるよい機会を得ることができたのではないだろうか。自分たちがなぜこのような研修を受けているのか、なぜこのようなことを学んでいるのか、それらを考えることが、教会のおかれている現状を認識し、それに対処するために何をしなくてはならないのかについて考えるとこにつながるのだから。

 95%という数字の信憑性にかかわりなく、この国はカトリック国だ。この国で活動することはカトリック信者とともに活動をしていくということなのだ。今回の研修を通して、ディリだけでなくさまざまな地域のカトリック指導者たちと出会えたことも、今回の大きな収穫であった。
 また、カトリック教会のおかれている現状に対してより深く認識することができたこと、さらにそれを何とかしなくてはという思いを抱いている人々と出会えたことも、大きな収穫であったといえる。この国では、カトリック教会に対して批判的な言動を公然と取ることは難しい。カトリック側にいる彼らにとってはより困難である。そのような環境の中でも、人々のことを思い、社会のことを思いながら努力している人たちとの出会いは、この国の政治がどうであれ、経済がどうであれ、日々の生活をたくましく、そしてつつましく生きている市井の人々の存在をあらためて意識し、彼らとともに生きていくため、自分にできることを精一杯やっていくのだという自分の決意をあらためて確認するよい機会であった。このようなすばらしい機会を与えてくださった関係者の皆様に心からの感謝をしつつ今回の報告を終える。
  (石橋英樹 東ティモール設立協力スタッフ)
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東ティモール便り(1)

2005年4月12日
報告:石橋英樹( 世界YMCA同盟グローバルオペレーティングプラン  東チモールYMCA設立協力スタッフ )

 東ティモールに来る際に最も心配したのは病気だ。特に、今まで考えたこともなかった熱帯性の病気であるマラリアやデング熱は恐怖だ。困ったことにこれらの病気は蚊が原因となって伝染するため、それを完全に防ぐことは難しい。さらに困ったことに、マラリアは夜に活発に活動する蚊によって、デング熱は日中に活動する蚊によって伝染するらしい。実によくできたローテーションだ。いくら蚊よけの薬や蚊帳を使っても、蚊に刺されないなどということは、不可能に近い。
実際、東ティモールに長く住んでいる外国人たちのほとんどがマラリアやデング熱に感染した経験を持っている。私が会った人の中でそれらにかかったことのない人は2人いて、1人はディリから離れた集落にある大学で教えている先生、もう一人はディリ市内にある神学校で教えている神父さんだ。蚊は流れのないたまった水の中で発生するが、そういった場所は都市の中の人工的な空間に多い。だから自然の豊かな環境で働いている先生は、蚊からは安全な環境で暮らしているといえる。
これから3年間、都市の中で生活する私は、相当な確率でこれらの病気にかかるものと覚悟をしている。蚊に刺されないことよりも、これらの病気にかかっても深刻な事態になる前に治療を受けられるような心の準備と、命を失わないための体力を養っていくことのほうがより現実的だし確実だ。

1999年インドネシア併合派と独立派の内戦によって多くの家屋が破壊された。破壊された家屋は、街のあちこちに今もそのまま残っている。


 ところで、今年はデング熱の患者がかなりたくさん発生しているらしい。マラリアと違い、予防薬も治療法もないこの病気は、困ったことに2度以上かかるとショック性の出血を起こし死亡する確率が非常に高い。今年に入ってすでに数十人の人が亡くなっているという。現に私が会った日本人にも、2度目のデング熱にかかった際、肺などに出血を起こし非常に危険な状態に陥ったという人がいた。いまだに治療法が確立されていないこの病気にかかってしまったら、とにかく輸血を受けながら、安静にしているしかないそうだが、東ティモール国内には十分に設備がない。その人の場合は、国連のヘリコプターでオーストラリアまで運ばれ、そこの病院で治療を受け、無事に戻ってきたそうだ。
その話を聞いたときに、私はこう思った.。「外国人でよかった。」すなわち、自分に何かあっても何か特別な方法で死ぬ前に治療を受けることができるだろう、という期待感だ。
 これを聞いて、私のことをひどいやつだ、と感じる人もいるかもしれない。でも、正直な感想だ。「東ティモールに来ているのだから東ティモール人と同じ治療しか受けない。その結果死んでしまってもかまわない。」と思うことは・・・私には、いや、すべての外国人にとって無理な話だ。これが現実なのだ。
 でも、やはり納得いかないものはある。では、なぜこの国の人たちは十分な治療を受けることができないのだ。早めに治療を受ければ治るマラリアですら、この国の人たち、特に体力の弱い人たちはたくさん死んでいる。いや、そもそも、本当にデング熱なのかマラリアなのか、それすらもあいまいなまま、たくさんの人たちが十分な治療を受けられずに死んでいるなか、私は、「外国人だから」という妙な安心感を持ってこの国で暮らしている。命は平等ではないのだ。

子どもたちの笑顔は、輝いている。

 この、「命が平等ではない」という現実は、決して新しい発見ではないはずだ。十分な治療を受けられず苦しんでいる人たちが、世界中に、また形は違っても私たちが暮らす社会の中にも存在しているという現実を我々は知っているはずだ。ただ、日常の中でそれを意識することがないために忘れてしまっているだけなのだ。
  「命の不平等」の克服は、人類究極の巨大すぎる目標かもしれない。私は医者ではないので、直接彼らを癒すこともできない。では、何ができるのか。何をしなくてはならないのか。。。
まずは、この現実を意識すること。そして、この現実が「どうしようもない」のではなく、「どうにかできる」ものであるというふうに発想を変えていくこと。まずはそこからはじめようと思う。
 こうして私の東ティモールでの3年間が始まった。

*「東ティモール便り」は、これから1ヶ月に1回のペースでお伝えしていきます。

 

 

■紹介:石橋英樹さん (機関紙『The YMCA』2005年5月号「人」より)

人との出会いを糧として
 「世界に広がるYMCAネットワーク」。YMCAでよく使われるキャッチフレーズだが、自分がその一部であるということを実感し、行動することは簡単ではない、と東ティモール設立の協力スタッフとして国際の現場にいる石橋さんは言う。
 1970年生まれ。広島YMCA予備校に入ったのが、YMCAとの出会い。大学卒業後、広島YMCAの進学部門での非常勤講師やサッカーリーダーなどを経て、広島YMCAと姉妹関係にある韓国の浦項(ポハン)YMCAで2年間日本語教師、大邱(テグ)YMCAとソウルにある韓国YMCA全国連盟で合計4年半、主に日韓交流事業担当のスタッフとして働いた。そして、2005年1月からは東ティモールで、東ティモールYMCA創立のための協力スタッフとして働いている。
 東ティモールは、16世紀から4世紀にもわたるポルトガル支配、1942年の日本による占領、戦後再びポルトガルの植民地となり、1976年からのインドネシア支配を経て2002年にようやく独立を果たしたという複雑な歴史をもつ国。この国に平和をつくる人材を育成するために、日本と韓国からの支援によって3年間の任期で派遣された。首都のディリに滞在した第一印象は、予想よりもきれいに整った街で、物価は高いが物は豊富に揃っているということ。実際に住んでみると、国連や国際NGO、それに現地の人たちの働きによって、表面的には整って見えるこの新しい国が抱えている構造的な問題点・矛盾点なども見えてきたが、同時に、問題点にばかりとらわれていると、日常を逞しく、慎ましく生きている普通の人々のことを忘れがちになってしまうことにも気づいた、とも。
 今後は、活動をとおしてたくさんの人に出会うだけではなく、お互いの人生に影響を与えあえるような深い出会いを持てたらと思っている。10代の頃、YMCA予備校を選んだのは主事が一対一で生徒の相談にのる、その姿勢に惹かれたから。国際の現場で石橋さんが目指しているのも、そんな人と人との人格的な出会い・交わりを深めること。真の「世界に広がるYMCAネットワーク」は、そのような出会いの積み重ねによって築き上げられるものだ、ということを経験的に感じている。「東ティモール発のニュースなどに接した時には、ぜひ、東ティモールに住む人々がここに、今、YMCAを創るために働いていることを思い出してください。」出会いは、相手の状況に心を寄せる想像力から始まる。日本のYMCAへのメッセージだ。

 

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