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コラム「ラポール」
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「ラポール(Rapport) 」は、相手と向き合って心を合わせていくこと、という意味です。
このコラムは、2007年1月から新しくスタートしました。青年世代の牧師・伝道師による、ユースに向けてのキリスト教メッセージを連載しています。


目次
「きずな」(2007年5月)
学生の居場所
(2007年4月)
愚か者
(2007年3月)

夢を追ってたって いいじゃない(2007年1・2月)

   
 


2003年6月から2006年12月までのコラムは, 一冊の本になっています。
本の一部はこちらで読んでいただけます。


「迷子の子羊」が教えてくれるもの
(2006年12月)
「ありのまま」を認める大変さ
(2006年11月)
「スクール・ライフ・バランス」を願って
(2006年10月)
何かをしたくて 戻ってくる子どもたち
(2006年9月)
共に新しい「公共」をつくっていく関係へ
(2006年7月)
一つひとつの歩みを味わうことの面白さ
(2006年6月)
やる気にさせる"何か"があれば
(2006年5月)
制度の隙間からこぼれてくるもの
(2006年4月)

「卒業式」に思うこと
(2006年3月)

オルタナティブ教育(フリースペース、フリースクール、単位制高校など)のページはこちら



「きずな」


 
   

 今まで多くのカップルの結婚式に立ち会ってきて、結婚準備のさいに、「おやっ」と思う光景にでくわすことがあります。私は若い2人に必ず3つの質問をします。
1. なぜこの人を選びましたか。
2. なぜ結婚式を挙げるのですか。
3. なぜキリスト教式で挙げたいのですか。
  男性は、問1については「好きだから」「いつも一緒にいたいから」、問2と3は「彼女のドレス姿をみんなに見せたい」「両親に感謝の気持ちを込めて」という素直な答えが返ってきます。では女性はどうかというと、最初は概ね男性と同じですが、話していくうちに、結婚そのものへの不安がよぎってきます。
  「結婚によって、私は家を離れ、環境を変え、名前も変えなければならない。そのことをわかってほしい」と突然相手に投げかけてきたりします。すると男性は「なーんだ、そんなことを心配しているの。早く言ってくれればよかったのに」と、さもわかっているよという感じで、優しい笑みを浮かべて返事をします。でも本当は何もわかっていないのではないか、そう思えて仕方ありません。
  一つの家庭を築くことが、環境を大きく変化させることになる女性にとっては、新しい自分になるというほどの大きな覚悟がいるのに対して、男性は、まるで自分の今までの住処の一部屋をささっと片付けて、 そこに彼女を迎えればいい、そんな風に思っているようにも見えます。両者の間には明らかにズレがあります。その中で、新生活を始めるのはそんなに容易なことではありません。
  聖書は、人が誰かと生きるときに大切な「きずな」を1本の「帯」にたとえます。男性が白い帯で、女性が赤い帯としましょう。しかしその2本の帯を組んで1本の「帯」に結びあわせたとしても、「帯」は決してピンク色にはなりません。赤い帯は赤い色を保ち、白い帯も白い色を保つからこそ、1本の強い「帯」を完成させることができるのです。強い「きずな」を形づくるには、自分の価値観や生活スタイルを一旦自分から離してみる、お互いの個性を発見する、尊重する、まずそこから始めましょう。そう励ましながら若い2人を送り出すように努めています。
   (東京女子大学 キリスト教センター 宗教主事  龍口 奈里子)

 




学生の居場所


 
   

  先日、ある大学教員と食事をしながら話していたとき、今の学生のひとつの特徴が話題にのぼりました。それは「今の学生は、3つの居場所をもっている」というものでした。それは、@同じ学科の友人との居場所、A同じ大学サークル仲間との居場所、B同じバイト先の仲間との居場所です。学生は、この3つの居場所を日々行ったり来たりしているということでした。この兆候は、消極的にとらえれば、「今の学生は、いつも人との衝突を避けるために3つの居場所をもち、日々の不安を取り除き、将来の自分に安心感を与えたいという只中にいる」ということです。
  この3つの居場所を「自分に都合のいい居場所」にだけしてしまうならば、学生は「異質な他者との出会い、交わり」は体験できません。「自分が愛されたい」という基準でしか、人と生きることはできなくなります。しかしこの3つの居場所へのかかわり方において、最後に価値あるものとして残るのは何でしょうか? それは、自分とは集う目的、優先事項、価値、歩む方向が違う者とでも、3つの居場所において、日々の不安を取り除き、将来の展望を創りあえるという希望を持ち、互いにかかわりあうことです。
  聖書のイエスは、ユダヤ教信者としての価値、生きる目的を同じくする人たちの中に自分の身を置きながらも、その居場所から引き抜かれた人たちに、絶えず「不安、孤立感などを取り除ける居場所を共に新しく創ってみないか?」と呼びかけながら歩もうとした人ではなかったでしょうか。
  このイエスの生き方を支えたのは、神が一人ひとりに与えた「違い」こそ、自分にはない希望であり、自分を日々新しくする「いのち」だという信仰だという気がするのです。
  あなたの日々の居場所の中心に、イエスはいつも喜びをもっておられますか?
   (日本キリスト教協議会  木谷 英文

 




愚か者


 
   

 長いキリスト教の歴史には多くの偉人・聖人がいますが、なかには一風変わった人もいたようです。6世紀のパレスチナの修道士・聖シメオンという人は、礼拝のあいだ木の実をろうそくに投げつけ、聖金曜日には公然とソーセージを食べていました。また16世紀ロシアの聖バシレイオスは、当時の「売春婦」と交際し、品行方正な人の家に石を投げ、不誠実な商人からは盗みを働いていた(!)そうです。
  現代の私たちから見ても不可解な行動ですが、しかし、こうした“聖なる愚者”が登場するのには、ある条件がありました。それは社会や教会が自己満足におちいったときだったのです。彼らはその行動によって、こりかたまって、きゅうくつになってしまった教会や社会のほうがむしろ本当はこっけいなのだということを明らかにしたのです。
  考えてみれば、イエス自身が数多くの「愚行」をなしています。それこそ「売春婦」、当時忌み嫌われていた「徴税人」「罪人」と交わり、食卓を囲みました。そして、最大の「愚行」は、十字架刑による死でした。周りから見れば、イエスの死はその運動の挫折であり、失敗でした。イエスは「愚か者」以外の何者でもなかったのです。しかし、この愚かさこそがまさにキリスト教の福音(良き知らせ)の中心なのです(コリントの信徒への手紙 I 第1章18〜25節)。
  冒頭の二人に共通するのは、その愚かさが“ただの愚かさ”ではなく、“キリストのための愚かさ”だったことです。そしてイエス・キリストの愚かさは、隣人のための、「弱者」への愛のための、愚かさでした。
  もし私たちが、いま自分は愚か者なのではないか、自分のしていることは愚かなことなのではないか、と悩んだときには、それが何のための、誰のための、愚かさなのかを問うてみたいと思います。キリストのための愚かさ、それは現代で言えば、路上で寝ている人のための、とか、身近で苦しんで声も上げられない友のための、あるいは、世界の平和のための、とか、いろいろ考えられることでしょう。私たちの愚かさが、キリストのための愚かさへと変容するとき、それは、私たちがなしうる神へのとびきりの献げ物となるのです。
   (聖公会 司祭   黒田 裕)

 




夢を追ってたって いいじゃない


 
   

  僕は学生だった頃、社会(教会を含む)の人びとの多くは生きるのに精いっぱいで、平和について考えたり行動したりする「余裕」がなかなかないことに気づかされました。ある人からは「君はまだ若いから、そんな理想を追ってられるんだよ。現実は厳しいよ」と言われました。自分はただの夢追い人なんだろうか、社会を知らなさすぎるんだろうか―そう落ち込みかけていたときに、牧師にこう言われたのです。「夢を追ってたっていいじゃない。クリスチャンが夢と理想を追い続けなければ、誰がそれをするって言うのか
い?」
  僕は自分が好きです。でも自分を好きになるまでにとても苦しい道を歩んできたような気がします。自分を肯定できない。この世界も肯定できない。だからこの世界に存在する意味がない。存在していてはいけない。そんな気持ちに苛まれていた時期がありました(いまでもときどきそうなりますが)。そんな僕をかろうじて支えていたのが、「神はあなたをあなたとして造った。そして命を与え、愛しておられ
る。それを知らせるためにイエスが地上に来られて、いかに神さまが私たち一人ひとりを愛しているかを示したのだ。
それは全人類に与えられる大きな喜びなのだ」ということでした。たとえどんなに自分が―時には自分によって―疎かにされたとしても、その存在が損なわれることはない。損なわれてはならない。そのためにイエスだけは永遠に共にいて味方でい続けてくれる―そこに僕は希望を見つけ、力づけられ、いま生きている、そう感じるようになったのです。そしてそれは、自分だけでなく、すべての人を生かす道でもあると思えたのです。
  クリスチャンとして誇れることは「正しい宗教を信じている」ということではありません(むしろ「キリスト教」に失望しそうになることの方が多いかも)。そうではなく、「夢と理想を追い続けることを許されている」ということではないかと思うのです。「いかにその日が遠く感じても、一人ひとりが大切にされる神の平和は必ず実現する」。そう信じ続けていきたいですね。
   (日本キリスト教団 三・一教会   平良 愛香)
★今号より、青年世代の牧師・伝道師による、ユースに向けてのキリスト教メッセージを連載します。 


 

   
   
青少年の置かれている状況を、大人の、社会のありようをとおして考え、彼らが「いま」 を生きるために、YMCA はどのような働きをなすべきか。過去4年にわたり、機関紙「T HE YMCA」に掲載した「ラポール」では、この問題について、現場で実際に青少年 たちとかかわる方がたより、分かりやすく、貴重なご意見をいただいてきました。本書は この「ラポール」(2003年〜2006年)を一冊にまとめたもので、のっぴきならないまでに深刻化したいじめや 自殺、虐待などの問題に対し、YMCA が地域や社会に何を伝えていくべきかを考える上で示唆に富んだ好著です。 
お求めは、日本YMCA 同盟まで。(1 冊210円、送料別途)



「迷子の子羊」が教えてくれるもの


 
   
  富山YMCAに待望のキャラクターが登場しました。「4匹の迷える子羊くん」たちです。
  彼らは、聖書の中の「迷える子羊」の物語から生まれました。100匹の羊の中から 迷子になった1匹に気がついて探しにいく羊飼い。周りからは同じように見えるたくさんの羊たち、でも羊飼いにはとっては1匹1匹が違って、それぞれが大切な存在です。迷ってしまった1匹に気がついて、それを探 しにいける私たちでありたいと願うと同時に、私は、この物語を読むといつも置いていかれた99匹のことを思います。普段、私たちは圧倒的に99匹になる確率が高いのではないでしょうか。そうなったとき自分ならどうするかを考えます。不安でどうしていいかわからなくなったり、置いていかれたことがショックで自棄になるかもしれません。
  フリースクールには、いろんな子どもたちがいます。個性たっぷりで、さまざまな事件を起こしてくれる子どもたちが常にいます。誰かに何かが起こったとき、限られたスタッフは1人に夢中になり、他が見えないことが多々あります。後であの時、他の子どもたちは何をしていたのだろうと反省することもありますが、よく考えてみると知らず知らずのうちに1人に夢中になることが許されているのです。それは、残されたみんな、その状況を自然に受けとめてくれる子どもたちの存在があるからです。誰かが大学に合格してみんなが喜び、失敗して落ち込み、スクールに来られなくなった子には悩みながらメールし、その子が出てくると本気で喜ぶ。そんな子どもたちに囲まれているからこそ、私たちは安心して1人に夢中になれるのだと思います。
  迷子になったことのある羊たちは、迷子になっている羊の気持ちがよくわかります。
弱さを知っている子どもたちは、弱くなっている人を思いやれるやさしさを持っています。彼らを見ていると、不登校や引きこもり、障害や苦手や失敗など、まるで迷子になったかのような状況や出来事は、人生の 中で、むしろ貴重で大切なもののように感じるのです。
   (富山YMCA フリースクール所長 上村 香野子)




「ありのまま」を認める大変さ


   
   

  「ギャーッ」子どもの叫びがテントに響きました。「食べようとしたお菓子がかじられてる!」「とりあえず落ち着いて! 落ち着いて!何があった?」…これは今年の夏のキャンプのワンシーン。食べようとしたお菓子が何ものかにかじられていたらしいのです。よく見ると、開けていないお菓子の袋になぜか穴が…そしてお菓子にもかじられた痕が…どうやらねずみらしい。「もうテントに戻りたくない」。そう言い張り、夜7時になっても、9時になってもテントに戻らない。スタッフのミーティングが終わっても、まだサポーター*といる! もう11時過ぎ、キャンプは残り3日。さあ、あなたならどうしますか?
  今回の結末は…1日目はサポーターとダイニングで就寝。2日目は、車の中でスタッフと就寝。そして3日目は、車を駐車場からダイニングに動かし、一人で就寝。途中、口では何度も「帰る」と言うのですが、実行に移そうとはせず、テントに近づかず、残りの時間のほとんどを車で過ごしました。昼間は笑い声すら上げていましたが。
  さまざまなところにこだわりをもつ子どもはいます。この子もそういう意味では、「ねずみにかじられた!」そんな恐怖感から抜けられなかったのでしょう。でも私たちはその恐怖を減退させ、なんとかみんなと一緒のテントに戻っていけるようにしようとは思いませんでした。それよりも、その子が直面した恐怖とどうつき合っていけばいいかを考えました。そして過ごす場所は、どこでも良いと考えたのです。こちらも無理をしない。大人も2日はつき合えるけど、3日はつき合えないと判断し、最後はその子が一人でいても怖くない状況をつくり、一人で寝てもらいました。
  通常は、「迷惑」という理由で、全体の形にあわせることを求められる社会。しかし個人のありたい形は、実はさまざま。libyをとおして行っていることは、そんな個人を大切にした営みです。「ありのまま」を認めることは、実は大変な作業なのです。
*libyでは、ボランティアリーダーのことをこう呼びます。子どもたちをリードする存在ではなく、あくまで必要なことのサポートしか行わないのです。
   (東京YMCA“liby” 担当主事 秋田 正人)



「スクール・ライフ・バランス」を願って



 
   

  少子高齢化が急速に進み、男性も女性もどのように社会で働くか、いかに育児にかかわるかなどがマスコミでもよく取り上げられています。その中で「ワーク・ライフ・バランス」という言葉が最近使われますが、「仕事と生活との調和」ということでしょうか。女性中心の育児や家事、長時間労働を当然とする男性中心の仕事観を礎とする従来のライフスタイル。発想を転換することにより、効率や生産性のみ
を優先するのでなく、調和のとれた働き方をし、本当に豊かな生活を図っていく。それが、この時代を乗り切る“コツ”ということなのでしょう。
  これは「人が人として生きる」ことの意味を考え直すことであり、勉強を中心とする学校の存在や、学校と社会の関係を問い直すこと、つまり「スクール・ライフ・バランス」にも通じるのではないでしょうか。
  ともすれば大人は子どもに「家の手伝いはいいから、勉強をしなさい」と、学校の生活、特に教科の学習を中心に1日、1週間の予定を決める。寄り道もせず、脇目もふらず、学校中心の生活を駆け抜けさせようとする。もしつまずくようなことが起これば、「人生の終わり」と考えてしまう。成績が良くなければ人生に希望をもてず、学校が苦痛の場所でしかなくなってしまう。学校で夢をもてずつらさだけを味わった子どもは、人間に、社会に不信感をもち、ついには自分自身にも背を向ける常態が続く…。
  通信制・単位制のYMCA学院高等学校では、全日制高校と比較し、学校以外の時間が十分にあります。「学校と生活との調和」を大切にできる、魅力あふれるユニークなシステムです。本校との出会いをとおして、いかに私たちの意識や行動が「学校」に比重が偏り、目先の準備だけにとらわれる傾向にあるかを自覚し、バランスのとれた歩みへ踏み出すことができればと考えます。
  サマーヒル学園(イギリス)の創設者A・S・ニイルは述べています。「教育は人生の準備ではない、人生そのものである」。生涯教育を推進し、学校教育の一翼を担うYMCAは、この言葉を真正面から大切に受け留めたいと思うのです。
   (大阪YMCA学院 高等学校校長 桜井 和之)



何かをしたくて 戻ってくる子どもたち




 
   
  この夏、フリースクールは大忙しです。外国人との英語漬けイングリッシュ・キャンプ、キャンプソングをCDに録音するミュージック・キャンプ、中学生を対象にした勉強合宿、そして3週間のロング・サマースクール。
  どれも、フリースクールの卒業生が主体となって企画した新しいプログラムで、参加するのは一般の小中学生です。卒業生は、勉強や仕事の合間をぬって、英会話に料理に勉強に、それぞれの得意分野をいかして20人近くの子どもたちと全力で向き合っています。
  富山YMCAフリースクールは、1989年にスタートし、これまで400人近くが卒業しています。ここは、不登校や中退を経験した子どもたちが、学校の代わりに通う“もう1つの学校”ですが、学校に戻す・戻るこ とは大きな目的ではありません。大切なのは自信をもつこと、強くなること、他人や自分を認めること、そして新しい世界で生きていく力を身につけること―。
  最初は自信なさげにうつむいていた子、何もやる気がなさそうだった子が、卒業する頃には胸を張って将来の夢や希望を語るようになります。卒業生には外国で働く人もいれば、教育や福祉の現場で活躍している人、大学に通っている人も多くいます。
  フリースクールは子どもたちの「居場所」であると同時に、「通過点」なのです。ここを通過していった子どもたちが大人になって、今度は何かをしたくて戻ってきます。「自分の力を試したい」、「経験を生かしたい」、「自分たちと同じように、いま悩んでいる子どもたちに何かをしたい」。彼らを見ていると元気になります。彼らが初めてここを訪れた頃を思い出し、成長の大きさに驚き、若者の力が無限であることに感動します。そんな彼らの姿、思いが、何よりも力になり、何よりもうれしいです。
  フリースクールがスタートして、気がつけば20年近く。積み重ねてきた歴史と、ここで育った一人ひとりが大きな宝だと感じます。
   (富山YMCA フリースクール所長 上村 香野子)



共に新しい「公共」をつくっていく関係へ



 
   
    行政の方々との仕事がどんどん増えてきています。新宿区の例を挙げれば、区立保育園跡地を利用した子育て中の親子の居場所づくりや、子どもの視点を取り入れた児童遊園の改修、いわゆる「ニート」についての連絡会、区民会議や地区協議会への参加など、ここ3年だけでもこのような状況が続いています。行政から、委託事業や指定管理者に指定されるというケースは多々あるでしょう。でも、ここでの特徴は、「議会や中間機関を超えて、行政が直接区民に呼びかけ、政策に反映しようとしている」ことにあります。そのお手伝いやそのプロセスに私たち liby がかかわっているということです。
  そこには相互にさまざまな困難があります。住民側からの発言は、これまでの「陳情」という域を脱していないことが多くあります。また行政は、「新しい仕組みづくり」にとても慎重なところがあり、なかなか結論が出なかったり、区の側からの考え方を先に示され、住民がとまどったりすることもあります。でもこうした中で、住民と行政のお互いの関係が、陳情「する側・される側」の関係から、「共に新しい公共をつくっていく関係」に変わってきていることが大きな成果です。
  私たちYMCAは、これまでプログラムの参加者を主に意識して活動してきました。しかし行政の進め方が大きく変わり、また私たちも法制度が変わる中で公共性ということを再確認せざるを得ないとき、私たちの働きも変えていかなければならないのではないでしょうか。
  意見が政策に十分反映されていないと考える地域住民ともネットワークをつくり、行政には将来にわたる方向を提案し、地域住民と行政の仲介者となって、いかに「よりよいコミュニティー」をつくっていくことができるか。YMCAの役割は、単に委託事業を受けたり、指定管理者となったりするのみでなく、まさにここにあると思うのです。
  libyの子どもたちの発想や視点―それがこのような形で共有されるとき、地域の課題の一つひとつが解決に向かうと思います。
   (東京YMCA“liby” 担当主事 秋田 正人)



一つひとつの歩みを味わうことの面白さ



通信制であるYMCA学院高等学校は、全日制の高等学校をはじめとする、多くの方が思い描き常識としている「学校」とは、いろいろな場面や状況において大きな違いがあります。たとえば、通学する日数、いわゆる「校則」といわれるものの内容や取りあつかい方、生徒と教員の関係などです。
それゆえに、「学校」の果たすべき役割とは何か、「学校」の意味や限界、教員・保護者・生徒との関係性について、あらためて問い直さざるを得ない機会に多く直面します。
  ある卒業生の母親から頂いたお手紙からもうかがえます。(原文のまま一部抜粋)

 
   

  「3年次生になり、卒業するのかな、しないのかな? 退学するのかな? と、親としては、本人が決めることと思いつつ、不安な日々でした…。
  始めは最短卒業目標3年半〜4年。しかし3年次後期に、予定していたより単位が取れている。卒業できればするし、できなければそれで良い。今すぐ卒業しなければならない理由はないと言い聞かせる…。
  遅れて来た生徒にも証書をちゃんと手渡される、正しい卒業証書授与式に感激…。進路を決める時期が年々、前倒しになり、これも生き辛さを感じる一つの原因なのではないかと思います…よくがんばっているなぁと思うのです。何しろ毎日家から外に出かけていくのは小学校以来のことですから…」

  このお手紙を読みながら、「学校」という制度も含め、私たちの社会は、何を目指し、どこに行こうとしているのだろうかと思わず考えこんでしまいました。最短で卒業することが正しいとされ、入学早々、卒業後の進路先を求められる。遅れて来た生徒は自己責任とされ、疎外される。
  早く、速く、無駄なく、正しくと煽られ、言われ続ける「学校=社会」。
  はたして、毎日通学することは、誰にでもできるあたり前の簡単なことなのでしょうか?
いろいろな人がおり、寄り道や道草をする楽しみがある。悩みや迷い、失敗が人を豊かにする。YMCAに集う私たちは、一つひとつの歩みを、ボチボチと丁寧に味わうことの面白さと大切さを、あきらめないで発信し続けたいと思います。
   (大阪YMCA学院 高等学校校長 桜井 和之)




やる気にさせる"何か"があれば



   私の1週間の楽しみ、そしてフリースクールの子どもたちの楽しみ、たくさんの常連さんたちの楽しみ、それは毎週火曜と金曜の「Y's さくらカフェ」特製ランチです。玄米ゴハンとたっぷりの野菜、日替わりでていねいにつくられたお料理は、まさに家庭の味。家ではゴハンを食べなかったり、好き嫌いがいっぱいの子どもたちも、ここでは箸がすすみます。いくつもの小鉢に盛られたおかずもアッという間になくなります。
  フリースクールが経営するこのカフェは、今年で3周年。数人のスタッフを中心に立ち上げた当初は、フリースクールの子どもたちの“食堂”でした。そのうち、だんだんボランティアが増え、お客さんも増え、気がつくと傍観者だった子どもたちが“お手伝い”をするようになりました。入り口の自動ドアが開くと、「いらっしゃいませ!」と子どもたちの元気な声。カウンターの中にも、厨房の中にも、子どもたちがいっぱい。今では、大人のボランティアよりも、時にはお客さんの数よりも多くの子どもたちがここで働いて
います。
   
 

  「現代の子どもは元気がない」「やる気がない」「働く気がない」。最近のニートや引きこもりの増加にともないよく耳にするセリフです。たしかに今時の若者は、“無気力”がスタイルです。フリースクールの
子どもたちも普段は「めんどくさ〜い」を連発する、あまりにも自然体の子どもたちです。
  でも彼らは、本当にやる気がないわけではありません。エネルギーがないわけでもありません。動き方、動く場所、タイミングがわかれば、そして「動きたいな」と思う“何か”があれば、私たちが想像もしなかったスピードでどんどん成長していくのです。この春から、なんと彼らが主体となって「お弁当屋」を始めることになりました。若者だけで始める自治活動。人間関係でぶつかったり、経営でつまずいたり、きっといろいろ悩みながら、彼らがどこまで成長していくか―また新しい楽しみが増えます。

   (富山YMCA フリースクール所長 上村 香野子)



制度の隙間からこぼれてくるもの



 

 先日、「老人福祉関係の仕事に興味がある!」という若者と、元東京Y職員の大村洋永さんが園長を務める「至誠キートスホーム」を訪ねました。広々としたバリアフリーの玄関、木目調の優しいカウンター、開放的な打ち合わせスペース…。「老人ホーム」とは思えないたたずまいが印象的でした。一番の特徴は、全国に先駆けたユニット型。生活の核として、10の個室と共有スペースでユニットが構成され、普通のお風呂、トイレがあり、使い慣れた家具を持ち込むこともでき、ペットも共生! 起床や就寝時間も自分で決められる。
一つひとつが驚きでしたが、よく考えるとこのコンセプト、liby とも共通します。 来る時間、帰る時間は自分で決め、プログラムもその日の子どもたちの「ノリ」を第一に決定。古びた2階建一軒家。施設や学校臭さがないなど共通点が多数。これは何を意味するのでしょう。
  お年寄りと子ども―社会のひずみは弱い者のところに表出するといわれます。一方は介護保険、他方はカウンセリングのシステムが十分機能すれば、問題は解決すると考えられています。しかし制度の隙間からこぼれてくるもの=「一人ひとりの尊厳、一人ひとりを大切にする」という考え方が、分野は違えど行き着いた先が同じだったのでしょう。「その人らしい生活」づくりのお手伝いをさせていただく―どんな設備、体制よりもこうした思いがまずあって、形づくる。これまでの制度は、「一人ひとり」よりも「全体」を、「個人の尊厳」よりも「管理」を大切にする部分があり、自己主張すると「わがまま」と言われる。「管理する側」がつくり上げていたプログラムの形が、こんなところから変わり始める、そんな時代が到来しているのではないでしょうか。
  働く場は変わっても、私は大村さんの中にYMCAを見た思いでした。YMCAの中にも、見直すべきものはたくさんあるのではないでしょうか?
   (東京YMCA“liby” 担当主事 秋田 正人)




「卒業式」に思うこと



 

 この季節、多くの方がそれぞれの思いをもって卒業される場面に立ち会うのですが、「高等学校卒業証書」のもつ意味と価値を考えざるを得ないことがしばしばあります。
  ある生徒さんは高校中退後、今のアルバイトを始めて約5年。社長から「正社員にならないか」と声をかけてもらったけれど、「高卒」であることが条件のため、会社の配慮で仕事をしながら残りの単位を修得し、卒業証書を獲得。晴れて正社員の試験を受けることができると嬉しそうでした。またある方は卒業式に本人と赤ん坊、そして義母の3人で出席されました。入学願書提出時はすでにお腹に子どもさんがおられ、義母に「もうすぐ母親になるのだから、せめて高校ぐらいは出ておかないと」と入学を勧められたのです。
  この2人の卒業生は本校で何を学び、何を修了したのでしょうか。高校を卒業した結果、正社員をめざす資格は得られた。しかし、本人の仕事を遂行する力は実質的に何か変化したでしょうか。もしかすると、ただ「高校中退」から「高校卒業」になっただけではないのでしょうか。本校には、赤ちゃんの育て方、母親としての心構え等々を直接教えるような授業はありません。なのに、なぜ義母は高卒にこだわったのでしょうか。
  「学校」の果たす意味と役割、そして期待されることは多彩で、時代とともに、また情況により変化します。実力主義や学歴の崩壊と言われながらも、私たちの社会は残念ながら「高卒」の資格を求めることが往々にしてあります。法律で定めた義務教育修了だけでは、社会で差別と偏見を感じることが多いのが現状です。高校卒業証書を獲得することと、それを熱望する背景には「実質的な意味」と「制度的な意味」があります。その2つが、現代の社会でどのように私たちの思考や行動に影響を与えているのか、ということへの問いは、社会における学校の存在、教育の意味と限界を考えることになります。それはYMCAの高等学校、そしてYMCAを担う私たち一人ひとりの使命を考えることでもあると思うのです。
   (大阪YMCA学院 高等学校校長 桜井 和之)

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